大好評!祥本サンゴの日記、略して「祥本サンの日」が新しくなりました!なんとバージョン2.0から、HITSUYOにしてJUBUNな部分だけ赤くなってます!分かり易!思想のバリアフリー設計だね!
祥本サンの日2.0
5月26日
Professor Longhair『Crawfish Fiesta』を聴く。葬式の途中で流れてきても、気付いたら皆、踊り出していそうな音楽である。「性急な河内音頭」という感じ。ご陽気なピアノ、これでもかと撥ねっぱなし。ビアガーデンで流れてたら売上げアップ間違いなしである。柿ピーとタイマン張れるおつまみである。ちょいとつまんでみようかなと思わせるのは、「タメ」と「解放」が拍子ごとに繰り返される個性的なタイム感の所為である。隣の鍵盤叩いてしまっていても許せるのは、リズムが崩れていないからである。良くも悪くも素晴らしき「テキトー」の美学である。私も、とことん適当に音楽をやりたい、と思っているのである。

5月25日
Prefab Sprout『Swoon』を聴く。軽さと複雑さが同居していて良い。「ポップ」と「80年代ニューウェイブ」の両立とも言える。拍子や音の使い方、とても変なのだけれど、耳障りが良い。Paddy McAloonさんの声が私の好みなのかも知れない。ボーカルも含めたバンドの構成音に対するポリリズム的解釈が、全く持ってステキと言う他ない。今、このアプローチでステキなバンドが世に出てきてもおかしくないと思ふ。もしかしたらもう出ているのかも知れない。どきどき。

5月16日
『MASH』を観る。創成期のサブカル極めり、といった風情。全体的な猥雑さと混沌の中に隠された感傷。痛快で繊細な映画や。今の世の中とは時代背景が違いすぎるから、すんなりとは入ってこないところもあるのだけれど。当時から戦争とか暴動は絶え間ないけれど、今はそこに「諦め」とも違う空虚感・倦怠感があるような時代や。とりあえず環境保護でも叫んでおきましょう、という時代では、この映画が70年代に持っていた輝き(捻まくった末の希望)を感じ取ることは難しいのかも知れない。個性的な映画としての輝きは別にして。

4月8日
「Techno Jeep」なる動画を見る。ジープを演奏してしまう発想に感服である。改めて楽器の定義について考えさせられた。音楽を生成するために、必ずしも楽器は必要では無い。あくまでも利便性の問題に過ぎないのである。よって、種々の楽器における演奏法など、所詮は後付けによる結果論の蓄積でしかなかったりする。だからこそ妥当やし、無価値であるとも言える。音楽教育と銘打って、「正しい演奏法」を説く教室などを見るたびに感じ続けてきた違和感を代弁してくれたような作品である。音楽に正誤は無い、と言うことに尽きる。そして、これがYoutubeという媒体なくしては成し得られなかったと思うと、技術と表現は連携と相克を繰り返し変容していくという点において、感慨深いものがある。感慨深いなう、である。

3月17日
神聖かまってちゃん『友達を殺してまで。』を聴く。久しぶりに、時代とリンクするカリスマ性を持ったフロントマンが出てきた予感を抱かずにはおれない。この得体の知れない不気味な世界観に安心してしまうのは俺だけやないことは前評判が証明しておる。いまの空気感が濃縮還元されたような「瑞々しくて嘘っぽい」音楽や。訳分からん感覚を無駄に整理せずに出来るだけダイレクトに、訳分からんまま排出してる。それがオモシロいし、スバラシい。リアリティーが有るのか無いのか分からん。まさしく、それは、いま。相対性理論然り、Bawdies然り、そろそろ何かが変わろうとしているのかも知れない。CVTみたく無段階で。

2月27日
Bawdies『THIS IS MY STORY』を聴く。ぶっとんだ。「第二回CDショップ大賞」とやらに選ばれるわ、ミュージック・マガジンで載ってるわ、で、何かと目に付いてはいたが。ジャケットだけやと、雨後の筍アイドルバンドって風情やけど、これは見かけに騙された。各方面でも言われてる通り、とりあえず声が日本人ばなれしてる。歌のフィーリングが日本人のものじゃない。特に語尾のニュアンスが非常にクロイ。聴いてみて、そういやラジオで聞いた事があったのを思い出した。とても日本人とは思えない音楽ですねーみたいなアナウンスと共に、どうせ国籍だけの似非ニホンジンが演ってるんやろう、とスルーしたけど、これはちょっと間違ってたな。あわよくば、この声の日本語音楽を聞いてみたいけれど。何はともあれ、「CDショップ大賞」は名前の野暮ったさに反して、なかなか当てになる。

2月3日
節分。何となく恵みをもたらせてくれそうな方角を向いて巻き寿司にかぶりついてから、山田洋次監督『おとうと』を観に行く。小津安二郎と市川昆の延長線上で、格差社会を背景として、「女のつらさ」を描く。『男はつらいよ』で奏でられた瘋癲への賛美歌を、現代的に解釈すればこうなるということか。半ば「流行」と呼べそうなほど、病原菌のように感染していく「寂しさ」の充満した時代の中で、鉄郎のダメさは救いなのかも知れない。また結婚式に呼んだら来る、と言わせるのは記憶の価値であって記録の価値ではない。死んだ、という客観的な記録よりも、生きていた、という主観的な記憶のほうが必要となるタイミングがある。無駄な人間なんて居ないというメッセージを感じた。愛するという行為は、愛される人が居て初めて成り立つということ。固く結ばれたリボンは、「人間」そのものの象徴である。

2010年↑
2009年↓

12月3日
名作「二歩で負ける棋士」に続き、またもYoutubeで秀作を発見。男女一組の空手家が向き合い、女のほうが左足を伸ばし男との間合いを慎重に伺う。恐らく「踵落とし」か何かをするのであろう。会場の空気がはり詰める。そして、女は意を決したかのように体重を乗せ、なぜか右足で男の股間をオモクソ蹴り上げる。左足から右足、頭から股間という2つの意外性が、非常に良い緊張感と間で炸裂する。レッドカーペットなら満点大笑いや。もはやドラマでは見かけなくなったハゲのなんちゃらいう俳優も間違いなく爆笑や。緊張は様々な表現の原動力である。

11月29日
とある方の講演を聴きに行った。「挨拶は、自分が存在している証」という言葉が心に残る。なるほどなぁ、としみじみ。挨拶というのは、最も些細でいて確かな「表現」である。つまり「表現は、自分が存在している証」と言い替えることが出来ると思う。ここに居る、というのを決定するのは自分自身ではなく、自分が何らかの表現をした時にその表現を受け取ってくれた人たちである。「人は独りでは生きていけない」という常套句は、思いの外、真っ当である。

11月26〜27日
大阪日本橋にあるin→dependent theatreにて開催された「INDEPENDENT:09’」という舞台を観に行く。私は休日になると天王寺〜新世界〜日本橋(調子が良い時は心斎橋くらいまで)あたりをウロつくという楽しみを持っているが、ある日の散策中にふと看板を見かけてこの劇場の存在を知った。それからこまめに公式サイトなどをチェックするようになって、この「INDEPENDENT」なるイベントを知る由となったわけである。最強の一人芝居フェスティバル、と打たれた銘に打たれて、行った。予てから「ひとり」にこだわる祥本サンゴからすれば、大変勉強になるわけである。

11月25日
Roger『Unlimited!』をヘッドフォーンで聴く。オーケストラの音像およびダイナミズムの再生という目的を基底に置いて発明されたピアノ・フォルテを中心とする「鍵盤楽器」は、半ば必然的にその奏法を開発・決定されてきたわけやが、シンセサイザーの登場によって「鍵盤楽器」は新たな価値を発見された。それは「打楽器」としての側面である。「打弦」という言葉からも分かるとおり、本質的には「鍵盤楽器」は「打楽器」である。今日の音楽においては当たり前に奏でられる打楽器鍵盤サウンドやけど、その歴史的な発見を行った立役者の一人としてRogerさんは居る。俗に言う「ケロる」サウンドと共に、歴史的な業績である。私が夜な夜な試行錯誤しながら知らず知らず体得した独創的な(いい加減な)鍵盤奏法は、ほぼ打楽器的な発想で成り立っている。よって、鍵盤は「弾く」というよりも「叩く」といったほうがシックリくるのである。Jerry Lee Lewisや山下洋輔やZappの音楽を知る前から本能的に行っていたところに、運命のようなものを感じるわ。ドキドキ。まだこんなにグルーヴィには叩けておりませんがね。やっとこさ最近、「弾く」ほうにも興味を抱くようにはなったが、これが難しいんだな。左脳が要る、というか。「叩く」のは、ほぼ右脳だけでイケる感じがする。「叩く」ことによるダイナミズムと「弾く」ことによるリリシズムを等価で含んでいるという点で、HorowitzとMonkの演奏は私にとって(ほぼ)理想的なピアノ奏法であると言える。

11月14日
Area『Crac!』を聴く。年代や当時の音楽シーンから考慮されてイタリアン・プログレッシブ・ロックに含まれるらしいが、これはどう考えてもミクスチャーのはしりやな。オルタナティブ・ロックでっせ。まぁ、同時にプログレまくりやけれども。プログレって時に技巧面とか構成の妙に懲りすぎて「聞くに耐えない」のがたまにあるけど、音楽として成功しているのはとんでもない完成度やわ。本作のように。特に、複雑さとノリを併せ持ったドラムがすごい。

11月7日
Joris Ivens『橋』『雨』などを観に行く。『橋』では、鉄製の橋に引き寄せられた光の、橋の動作による反射に、官能性を感じた。塚本晋也『鉄男』と似ている。『雨』では、微かに波打ってエントロピーが増加していく街並みの様子がとろえられており、えもいわれぬ美しさ。あらゆる美学がたどり着くのは、自然の生業である。滴る水玉の形は、誰にも否定出来ないのだ。

11月6日
『New York Noise』なるコンピレーションを聴いていて、やたらとずば抜けてカッコイイのがあった。The Contortions「Contort Yourself」という曲である。カチャカチャ調べたところ、James Chanceという方がフロントマンだということ、ポストNYパンクの中心人物であること、すげぇカリスマやん、というようなことが分かった。早速『Lost Chance』なるライブアルバムを聴く。1981年の狂気であり、永遠の凶器である。音だけでカリスマ感バンバン伝わって来るわ。泣く子も黙ってから余計泣くわ。ついでにお母さんも泣くわ。

11月5日
『ポーランド人の結婚』を観に行く。のどかな田園風景に殺伐とした感情が挟み込まれるところが独特の世界観や。最後に男が蜃気楼の向こうに見る子連れの女性を、帰ってきた実像とするか、男の感傷が作り出した虚像とするかで、物語の後味は全く違ったものになる。終わり良ければ全て良し、なんて言うとおり、大抵の表現は終わり方次第で何とでもなるところがある。終わり方の次に大事なのは始まり方であって、この2点さえ間違わなければ大体いいものが出来ると考えている。逆に言えば、いい作品ってのは始まりと終わりが良く出来ている作品ということや。

11月3日
文化の日。かの有名な「主食は文化」発言ひとつ取ってもご理解頂けるように、私にとっての祝日ランキング不動の1位や。ま、本当に有名なほうの「不倫は文化」という発言も、深―いところでは否定しきれない祥本サンゴです。ということで、森田芳光『わたし出すわ』を観に行く。日本映画史上に燦然と輝く名作『家族ゲーム』冒頭を彷彿させる傍観・俯瞰のショットから始まるあたり、所々に挟み込まれる文字と映像の絶妙なリンク加減、重力に逆らって不気味に傾いた構図の雰囲気など、実に森田色満載である。監督の個性が出ることで映画の手法に共通性が見られるのは良い意味で至極当たり前のことなのだが、「誰が撮っても良かったんちゃいまんのん?」という凡庸で下らない映画があまりにも多いため、砂漠でオアシス見つけたような気分になった。森田さんの作風を言うなれば「嘘みたいな社会を背景とした映画という箱庭の中に極端な嘘を主人公として置き、その人物たちが繰り広げるドラマまでをも含めた風景を傍観の姿勢を貫いて景情一致で描く」というカンジ。この傍観という姿勢が森田作品の持つある種の「冷ややかさ」を形作っているように思う。しかし、その「冷ややかさ」の向こうでは、対極となる人間の「熱苦しさ」が描かれていて、作品は深い味わいを持つ。すごい方である。途中で死人が出たのは少し残念だったが(人を殺す、もしくは死ぬというのは、最も簡単なドラマの手法。笑いにおける下ネタ、音楽における循環コードと同じ。)、カネを軸にして「ありがとう」に辿り着くところがとても良かった。全く作風違うんやけど、観終わった後の感覚は伊丹十三『タンポポ』のそれと似ていなくもない。カネで買えないものもあるし、買えなさそうで買えてしまうものもある。買うべきでないものと、やはり買うべきだったもの。少なくとも本当の「ありがとう」はカネだけでは買えない、ということかな。うーん。カネはとっても難しい。マクドナルドのスマイルは本当に0円か?ということや。笑うのが後か先かの違いだけ、みたいな?ちょっと違うな。うーん。少なくとも本作の内容は、あながち無い話ではない。金は天下の(一部分の)回りもの。だもんで、懐寂しい今日この頃、レイトショー割引1200円で観たわけやが、劇場の客は私ただ一人であった。鑑賞の環境としてはこの上ないものであったが、少し残念や。作品に対するものと、日本人の文化的レベルの低さに対するものと、相反する2つの感動に襲われた。誰かが噛み砕いたふにゃふにゃのモノばっかり食べてたら、歯が悪くなって何も食べられなくなるぞ!

11月2日
基本的には常日頃からヒマを持て余さないように心掛けているので、傍から見れば「あの人ヒマそう。かわいそう。」みたいな状況に見えても、瞑想、宇宙との交信、それに伴う呟き、異常なまでの貧乏ゆすりなどで、脳内(および一部の身体)は忙しなく動いておる訳です。そんなヒマを持て余さない男・祥本サンゴにも、古代マヤ文明が予言したとかしてないとか言われる今世紀最大のヒマが押し寄せて参りまして、いや別に無理やりに何かすることは出来たのですが、する気も起こらないという具合で、超・久しぶりにゲームセンターにぶらり旅した訳です。かれこれ10年ぶりくらいになりますでしょうか、メダルコーナーというのに行きまして。これがまた思っていたよりも熱中して、軽やかに散財した訳。日進月歩はご多分に漏れず、メダルゲームの進化を目の当たりに。競馬のなんか馬みたいなのがすごい綺麗に動くのやら、「トルネコ」みたいなRPG然としたものやら、パチンコ屋さんみたいなコーナーやら、なんかスゴかった。人間を形成するパロメーターの中でも特に「柔軟性」「適応力」に欠ける私はそういった進化型メダルコーナーに対応できず、昔ながらの「コインころがして、スーって来てポトン」みたいなタイプばかりを幾つかプレイ。ひとときの暇つぶしやったけど、擬似的ではあるにせよ、賭け事に内在する独特の魔性の魅力を感じることが出来た。コイン同士のぶつかり合いに全神経を注ぐことで、その先にある「勝ち」だけを信じるという行為には、ある種の宗教的な力を感じた。集中するというのは、「集中しろ」と自我に訴えかけるだけではコントロール出来ないところがあることは経験則で知っている。勝ち負けに本質はないが、やはり勝ちにこだわることは大切やな、と感じた。ただの暇つぶしのはずが、今後もメダルコーナーに散財を続けるかも知れない…怖い…人智を超えた魔力を使いこなすのは至って困難である。

10月30日
Charlie Parkerの1947年の演奏を聴きながら、「ビバップ」について考える。現在「ジャズ」と形容されているサウンドを形作っているのは、「ビバップ」によって提示された手法によるものがほとんどであると言えそうである。「コードの解体および拡大解釈」については、ポピュラーミュージックの基本的手法とも言える。リズムの強調、という目的から始まったところが興味深い。この時代の録音には、新しい価値が息吹く瞬間の熱気と興奮(ドラッグの影響もあるかも知れない)が収められており、非常に活きがいい。私はCharlie Parkerのインプロゼイションは活きが良過ぎて耳が追いつかない感があり、あまりノれないのだが、Bud Powellのピアノなどは好きである。適度に「溜め」があるというか。特に『The Amazing Bud Powell Vol.1』冒頭の「Un Poco Loco」怒涛の3連発が好き。タイトル通り最高に意味不明でヘンテコな曲である。最初に聞いたときは「何回やるんじゃい!」とスピーカーに向かってツッこんだ。今ではむしろ、3連発じゃないと聞けない体になったわ。聴くたびに「この人、死んでまうんやないか…」と心配になるくらいの緊迫を感じる。途中で「むぅ〜」「ぁ〜」といった苦しそうな吐息が入ってくる感じが、全くもってAmazingとしか言い得ない趣や。

10月10日
旧・体育の日。中国の旧正月みたく、俺は祝うよ。これが後世に語られることになる「体育の日は10月10日以外は認めない宣言」である。「ポツダム宣言」「ヤマザキ新食感宣言」と合わせて世界の3大宣言として知られることになるであろう。「この宣言がいいね」と君が言ったから10月10日は体育の日は10月10日以外は認めない宣言の日である。ややこしいのでまとめて言うと、この宣言は認めない日である。ということで、大阪西成は愛燐地区で開催されている「よってきまつり」なるイベントに行く。お目当ては以前テレビで観て衝撃を受けた曲『朝起きたら』を歌っていた小林万里子さんである。事前に出来るだけ予習をして行ったが、いやはやそれを上回る衝撃的な方であった。4曲ほど演らはったが、余す所なく公共の電波には乗せられない内容であった。某タレントの某事件の某音頭の替え歌が特に印象に残った。あれで盆踊りする町があったら住みつきたい。「瞳ギラギラ」のところが特に好きである。私の口からはここまでしか怖くて言えない過激な内容であったが、終始とても楽しかった。「笑いと音楽の融合」が関西弁のイントネーションを保った歌唱によって実現されている、というか。関西弁の歌詞の歌は少なくないが、関西弁のイントネーションで歌われる歌はほぼ無いと言ってよい。このことは関西弁の音楽的な特徴を如実に表している。関西弁は商人の言葉として成り立っていく過程で「笑い」と「非音楽」という2つの価値を得たのだ。しかし、面白いと感じるイントネーションが音楽になりにくい理由は分からない。あくまで推論だが、「面白い」とは瞬間的な非音楽なのかも知れない。よく分からないが、とりあえずすごく難しいことを飄々と成されている方である。終演後少しお話しさせて頂いたが、とても優しい雰囲気を持った方であった。日本語による音楽の数少ないオリジネイターの一人である。そう思った。

9月22日
『クレヨンしんちゃん』を本棚から引っ張り出してきて読んだ。リアルタイムで読んでいた頃と同じように布団の中に潜り込んで夕焼け色にした電灯の下で。マンガはほとんど読んだことがないが、「クレヨンしんちゃん」は別である。私の人格形成に多大なる影響をもたらした作品である。しんちゃんの「おバカ」の裏側に込められた人間に対する深い愛情に、私は子供ながらに救われていたように思う。神格化された大げさな嘘よりも、下世話でちっぽけな本当にこそ愛は宿る。臼井儀人さんの残した優しさを、何らかの形で受け継いでゆきたい、と思う。

9月21日
小林正樹監督『切腹』を観にいく。フィルムノワールのような映像。救いようのない世界観。没落した武士が心の奥深くに溜め込んだ暗黒。消し去られた歴史。やるせない怒りが、発露する瞬間の緊迫。とても暗い映画やった。映像表現の手法として映画とテレビ(テレビ画面で見る映画も含む)が決定的に違う点は、映画では「暗さ」を見せることが出来るということにあると思う。武士という身分が産み出した負の歴史が、徹底的な「暗さ」で表現されていた。目では見えない「暗さ」の中に、かっさいた腹から滲み出る武士の暗黒を観た。んで、ダイナミズム満載で敬老の日は続き、『ぴかちゅうとONIのモンモン♀ナイト2』という飛び切り明るいイベントに行く。「関西ゼロ世代」と呼ばれるシーンの創始者と言っても過言ではない、あふりらんぽ主催のイベントということでドキドキしっぱなし。全国から騒がしいオンナ達が集い、騒ぐ。もとい、騒ぎまくる。4時間くらいあったけど、すごいエネルギーもろた。演奏前に自家製の豚の角煮を配るという、ビッキーズもビックリのパフォーマンスをした「角煮」が特に印象に残った。しかし、トリのあふりらんぽの言葉を借りれば、「なんやかんやいうてもうちらががんそちゃうん(本日は様々なバンドが演奏しましたが、私たちがオリジナルだとは思いませんか?)」に集約されるイベントやと思う。その言葉どおり、あふりらんぽが創った世界である。松坂世代における松坂大輔。オリジネイターの放つ迫力と個性。最後に出演者一同(と少しの観客)によってあらゆる音が泣き喚き散らし飽和する会場の空気分子の渦の中で感じたウネリ。体の底から来る興奮。とやがて来る静寂。その対比。音楽が雑音(ノイズ)という「音」にまで分解されたときでも、何かしらの法則性(うねり)を見出して「ノれる」可能性があるということ。ただし、これは私の場合であって、「ノれない」可能性も十分ある。音楽には、音を鳴らす・鳴らさないという客観的二元論と、音楽である・ないという主観的二元論が成り立つと思う。物理的に音が鳴る(空気が震える)という現象は誰にとっても同じ状態だが、その音を音楽と感じるかは人それぞれ、ということ。この概念を基に、私の感覚とあふりらんぽの関係を平面図で表すと以下のようになる。
2元論×2の図
Aと書いてあるのが、あふりらんぽの位置づけ。この主観的二元論の境目は、趣味趣向の移り変わりや体調、気分などによって常に動くものである。そして、今日少しだけ広められた「音楽である」領域に、あふりらんぽは鳴った。ともすれば騒音になってしまう危なさをも含んだ音に打ちのめされた要因として、2つ考えた。確かな演奏力と表現としての純度(信憑性)の高さ。これは、図らずも言い得たLiveの本質や!

9月20日
ぶらり途中下車の末、電子部品の専門店に行く。新たなプレイスポットとの遭遇である。未知との遭遇内閣である。何でも作れるんちゃうん!?と、小学生の頃の様な瞳で店内をウロツキまくった。ボタンというボタンを押しまくった。これは足繁く通うことウケアイ。自作の楽器を作ってみたい。作り方分からん。誰か作って。それじゃ意味ないぜ。自分でやることに意義があるのだ。ゆくゆくは「サンゴトロン」みたいな名前で商標登録して、ウッハウッハ、である。夢は広がるばかりである。一台4980円(税込)くらいで、パッケージには殺し文句「これで今日から祥本サンゴ」である。初回生産限定で、祥本サンゴ×キューブリックみたいな人形を付ける。ウッハウッハ。さぁ、壮大なるサイドビジネス計画へ向けて、まずはΩの法則から…フレミング!どの指が何やねん!

9月13日
「かわちながの世界民族音楽祭」中村池ステージに出演させて頂く。体調も良く、天候にも恵まれ、この上ないコンディションにも関わらず、反省の嵐ちゃんである。全然あかん。ただし前向きな意味ではある。「もっと出来る」という思いが煮えくり返っているのだ。体が追いついていない。体の内側にあるものが1パーセントも出せてない気分。悔しい。歯痒い。うー、むぉー、と心の中で叫びながら、New Cool Collectiveの演奏を聴きにいく。カッチョエエ大人のミクスチャーバンドであった。ひんやりとしたジャズに基軸置きながらラテンやらロックの要素が顔を出して時折アツイ。「クラブジャズ」ムーブメントの一端を肌で感じた。90年代あたりから本格化し始めたクロスオーバーな音楽は、いろんなジャンルから要の部分だけを吸い寄せて、最後は原始的な音楽の欲求に立ち戻ってくるんとちゃうやろか。強拍と弱拍の組み合わせといったくらいの単純なものに。ラストの高校生とのセッションで、ソロとった女の子の堂々とした演奏は素敵やった。毎年思いますが、「かわちながの世界民族音楽祭」は本当に貴重なイベントです。頑張って続けて行ってほしいと心から願っています。そして、会場でお題を書いて下さった皆さん、ありがとうございました。

9月4日
ZAZEN BOYS×立川志らく「MATSURI SESSION独演会」に行く。時代の先端が放つ緊迫感と、多種多様なオモシロさに満ちた場やった。アンコール前に、ちょっとローディーが楽器の調子確かめておいて、口でやるんかい!みたいなオチがあったりして、演劇的な要素も多かったように感じた。とりあえず個性的過ぎて、なんかスゴイわ。瞬間ごとに切り取った音像に「温度」の違いがあって、それを巧みに操る。熱さと冷たさの間を往来しまくるような演奏。肉体と機械。混沌とした熱の移動から来る、この心地よさはなんじゃ?そして立川志らくさんの落語。熱。熱である。要するに熱であるのだ。熱がどうなるかは様々やが、熱がどうにかなるということだけは言える。それが表現するということであって、感受するということなのだ。と思うた。腕時計は公演開始前に外した。時計があったら、時間が分からなくなるから。時計が日常的に刻む時間など所詮代用に過ぎない。本当の時間は、自分の体内にだけ刻まれている。私は約2時間強と一般化される時間を、約2秒ほどに感じた。ということだけ、書きとどめておきたい。それはほぼ一瞬の出来事であり、永遠でもある。永遠、である。

9月3日
メタリカのナンチャラ言うDVDを見る。アルバム『Metallica(通称:ブラックアルバム)』制作過程の回顧録という内容。ヘビーメタル系統には詳しくないが、このアルバムは別格なんやろうということは感覚的に分かる。すごーい濃―い演奏である。深みはあってもしつこくない、という味わいである。いとをかし。

9月1日
北野武『ソナチネ』を観る。この映画が何を意味しているか?と問われると困るが、何を感じたか?という問には多くの答えがあると思う。現代には、これと正反対の状態に陥る表現が蔓延っているように思う。意味は分かるが何も感じない、というやつである。勧善懲悪の才子佳人による起承転結よりも、支離滅裂で不可思議な序破急のものに強く惹かれる。ただし、ムチャクチャになってはダメなだけである。その点で北野映画は私にとって、様々な感情や想像を湧き起こらせてくれる貴重な存在である。たけしさんの頭の中を字幕を介さずに覗けることが、日本人に生まれてよかったと思う数少ない瞬間のひとつである。

8月31日
イモトに感化され、近所の歩道や公園などを走り回る。私も死ぬまでに100キロくらい連続で走ってみたいものである。どちらかと言うと長距離型の祥本サンゴです。政権交代については、屁とも思っていない。今までフワフワのパーマ当ててた人がストレートパーマ当ててボリューム控えめになっただけで次の日の朝に「髪切った?」って勘違いされたようなもんに過ぎんわ。

8月29日
「八尾河内音頭まつり」に行く。河内音頭は物心ついたころには聞きなれていたほど身近にあったのだが、その発祥が大阪の八尾であることを最近知った。んで行った。親和性、という概念が化学の分野にある。ある物質とある物質が混じりやすいとか融合しやすい時に「親和性が高い」と表現する。これは、人間における心理的な感動にもあてはまるのではないかと思う。いろんな世界中の音楽を聴いてみて、感情が入らない音楽も少なからず確実に存在しているということに気付いた。私の場合、特にヨーロッパ圏の音楽はあまり入ってこない。反対に、アフリカの音楽にはとても感動させられることが多い。前者は私との親和性が低く、後者は高い、ということである。この考え方によれば、河内音頭は間違いなく後者である。そして、心理的感覚に対して親和性という概念を応用することの最大の意義は、「直接的な理由付けを必要とせず間接的な条件のみで音楽の趣向をある程度は決定できる」ということにある。これは同時に、「何の根拠もない」ことを意味している。ちょっとややこしい言い方になったが要するに、人種や出生地(国)、文化や習慣、発育環境(性別の違いによるものも含む)などによってある程度好きな音楽(その他も芸術も含む)は決まるということである。そして、根拠はないということ。正確にはあるかないか分からない。私はここに、何か未だ発見されていない(もしくは、意味として発見することの出来ない)根拠があるのだと考えている。予ねてから私が提唱する「超・意味」の考え方である。意味(根拠)が無いのに感動するのは、意味を超えた何かがある。ということ。血が騒ぐ、などの慣用表現もこれである。腰が動く、体が勝手に、なども同様。少し違うが「トランス状態」も非常に近いといえる。よって、河内音頭は私にとって「超・意味」の魅力を持った芸能であるということになる。どなたか芸術における親和性の研究しませんか。被験者を「ひととなり」タイプ別に集めて、サンプルになる数種類の音楽を聞いてもらって、一番好きなのを選ぶ、みたいな。おもしろいと思うけどなぁ。

8月28日
もう、カプリコのことは忘れようと思う。いろいろ悩んで出した結論である。何かを無くして何かを得ることでしか、僕たちは前に進むことが出来ない生き物なんだ。さようなら、カプリコ。それでは聞いていただきましょう、昭和46年のヒット曲、尾崎紀世彦さんの歌で、曲は「また会う日まで」。尾崎さんのダイナミックな歌唱法に、ご注目下さい(中山エミリ)。たったーらたーららー、たったーらたーららー、たったーたーたーた−…

8月27日
夢占いというのを聞いたことがある。基本的に占いは全く信じないが、カプリコとなると別である。全く、なぜカプリコを夢見たのか、不明である。気味が悪いわ。なにか神秘的な魅力すら感じる…聖・カプリコである。誕生日は「カプリマス」と呼ばれ、世界中の人々が国境を越えて聖なる夕べを楽しむのである。誰もが夢に描いたユートピアの象徴、それが、カプリコである。世界的大恐慌、絶える事のない紛争、仕掛けられた核弾頭、信仰の違いによる文明の衝突、暴動、虐待、無差別殺人、現代社会に蔓延する数え切れないほどの絶望感と唯一対峙出来うるもの、それが、カプリコ。我らがカプリコに、幸あれ!

8月26日
一昨日の晩の夢に出てきた「カプリコ」をスーパーマーケットで買って、すぐ食べる。本当にすぐである。この年齢になって、こんなことでこれほどまでに心躍ることがあるのか、というほどアゲアゲになる。陳列棚にそのお姿を見かけるやいなや、憧れの上級生と廊下ですれ違っただけで胸をトキメかせる中学2年女子のような眼差しで少しニヤニヤしてしまったため、さぞかしキモかったであろう。通報もんである。わいせつ物陳列棚罪である。固めのエアイン構造チョコと、優しいコクのコーンとの相性がベリーグーである。カプリコなら何個でも食べれるわ!主食にしたろか!栄養バランス崩したろか!

8月25日
「カプリコ」の夢を見た。俺がカプリコをものすごくおいしそうに食べまくる、という夢である。寝起きはよかったのだが、冗談抜きで頭の中がカプリコ一色である。『私の頭の中のカプリコ』である。絶賛レンタル中である。ゲオなら100円で借りれます。借りられます。よかったね。

8月19日
日本語で音楽をやるという行為に付きまとう「ある種の違和感」をどうやって乗り越えるか、というのが、はっぴいえんどから始まった模索のメインテーマなんやと規定してみたときに、90年代のJ-POPの異様な高揚感を支えているのは、「ある種の違和感」が併発させる「音楽的な中途半端さ」に対する開き直りの潔さなんやと感じるに至る。その潔さを産んだのは、紛れも無くカネである。キショイぐらい売れてたものね。ライブやったらアホほど集まるし。そりゃ、出せる以上の力も出るでしょう。海の物とも山の物ともつかないまま名産品になった、みたいな。決してダメやと言っているのではなくて、「中途半端なまま極まる」という誰も想像できなかった作品群が残されていった、という感覚である。そして、クラムボンやハナレグミなどによって、それらはもう一段上へと押し上げられた訳や。さながら「日本語の逆襲」とでも呼べるような音楽。「日本語でも」の音楽から、「日本語なら」の音楽へ。旅路は続いてゆく……

8月18日
最近、改めて90年代のJ-POPを聞いている。嫌でも耳が覚えている感じと、一周した新鮮さを同時に感じて、面白い聞こえ方がする。特にB’zとJUDY AND MARYは、グッとくるね。改めてね。

8月17日
毎週楽しみに見ている「音楽寅さん」で、とっても個性的な曲が歌われた。ビビビときた、というか。その曲は、一晩のアバンチュールの末に女が見た光景を描いた内容で、重さと軽さが同居したブルースな世界感を醸し出していた。いや、ニオイたっていたと言ったほうがいいかな。そして何より衝撃的であったのが、言葉のニュアンスが「関西弁」であったという点である。ネットで調べた。便利な時代やな〜とこういう時は素直に喜ぶ。小林万里子さんの『朝起きたら』という曲であるらしい。Youtubeで聴いた。すげぇ、かっこええ、とモニターに向かってボソボソ言う。この時点ですでに虜になり、公式?らしきサイトにたどり着く。その名も「朝起きたら掲示板」。なんかスゴ。深い。底が見えない感じが興味そそられまくりである。近々、ライブに行かなければならない。この思いは、朝になっても忘れないぜ。

7月20日
海の日ということを全く意識せず、国立文楽劇場に行く。アイム・イン・ドアー・派、である。「生写朝顔話」という演目であった。だいぶ前から浄瑠璃に興味があって、やっとこさ行けたわ。そして、想像以上に面白かった。「古典芸能」として観に行ったけど、ある意味、前衛か?とも思った。人形が絡み合うだけの無機質な舞台に、ライブ感抜群の三味線、琴が響き、太夫が語り、謡う。極端に削ぎ落とされた表現がもたらす世界は、なぜか有機的な温もりがある。この温もりこそが、「無形文化財」たる所以である。と思い知った。形としては無けれども、確かにそこに温もりがある。すげぇぜ、浄瑠璃。国宝じゃ。今は、何もかもを形として提示することを求められる時代。そんな時代にあって、無機質な人形がまとった温もりは、前衛として捉えるべき感覚である。すなわち、私が兼ねてから提唱する「超・意味」の魅力である。魔力でもある。浄瑠璃の手法は現代において、アニメーションとして発展している(画と音楽と声によって創られるという点で)が、この魔力は引き継がれていないように思う。オタロードのほど近くで、新旧の比較してみたろうか、と思ったが、とっても長い話しになりそうなので、股の機械。いえ、又の機会。何はともあれ、オモシロかった。ちょっとした下ネタみたいなところ(マツタケとアワビ)もあって、大衆の文化としての側面も垣間見れたな。その意味では、吉本新喜劇を観た時と近いところもあった。両者の決定的な違いは、人物が人形か人間か、ということと、オバ様方の弁当の食べ方だけ。いつの時代もエンターテインメントに求められるものは本質的には変わらないのだ。平たーく言えば「楽しさ」。んで、その勢いのままワッハ上方で「Joy−Park」というイベントを観る。超・若手のお笑い芸人の方々がほぼ自主的に行っているイベントである。手作り感と情熱が会場内に満ちており、とっても元気をもらった。正直、素人に毛が生えたくらいやろ、ぐらいの気持ちでそんなに期待せずに行ったけど、さすが(と言って良いのか分からんが)吉本、入場料400円とは思えないクオリティの高さである。特におもしろかったのは、元アル中「ドリンクバーゲン」と、グチャグチャ紙芝居「パプア。」と、セックスフレンド漫才「あだるてぃ〜ず」の3組。いやはや、今日はイロイロ飲み込んだ一日であったと満腹チックで帰る地下の鉄道車内、呑みすぎてゲロリアンなおにぃさんがレロレロレロ…と豪快に。酸っぱーいニオイが今日の最後の思い出。私は酒を呑もうとあんな事にはまずならないが、酒に限らず、すべての飲み込んだものをしっかり吸収できる人間でありたいと思った。レロレロ。

7月17日
Linda Lewis「Lark」をウォークマン的な再生装置で、mp3的な圧縮形態で聴く。名作である。時代背景や当時の音楽シーンからかんがみて、突然変異に近いはず。後にも先にも居らんようなタイプぢゃ。ビョークが近い、と書いてある評論を読んだが、ちょっと違うと思うた。孤高や。いわゆる「隠れ名盤」やな。飲食店で言えば「隠れ家的名店」や。別に飲食店で言わんで良いが。

7月16日
イモトアヤコがカワイイ。握手会とかあったら行ってしまいそうな勢い。疲れ、の一種や。いや、でもマジでタイプやぞ。隠れファンは多いはず。

7月15日
遠藤賢司『東京ワッショイ』を聴く。超・個性的である。何者にも似ていない。時代や音楽スタイルを容易く超えるだけのテンションの高さを持った、衝動的な瑞々しさに包まれた表現の数々である。ワッショイっワッショイっ。純度99.9999パーセントの遠藤賢司であって、我々は数分間、残りの0.0001パーセントとして共鳴するのである。歪みの美しさ。曲線ではなく、超・直線

7月12〜14日
やること多すぎるんじゃ!3〜千住観音に憧れて〜。第3弾から、新たな主要キャラクターなどが登場するものである。もしくは、それまでの主要キャラクターが死ぬ。しかし、俺は、生きる!故に!故に?ふんがっ!

7月11日
子供たちとの触れ合いを行った。なんか、犯罪とかではない。あしからず。合法的な触れ合いである。地域交流である。本当である。アヤシサ全快である。本当である。

7月10日
金曜日!土曜日の、前の日。知ってた?木曜日の…

7月9日
やること多すぎるんじゃ!2。待望のシリーズ化です。これもひとえに皆様の日頃のご愛顧によるものです。

7月8日
例え、やる事が多かったとしても、それが星を見るという行為にまで影響するとは限らない、という考えに至りました。一日で。ということで、昨日の発言で多大なるご迷惑をおかけした星、および星関係者の方々に深くお詫び申し上げます。…すいませんっしたっ!(目を引ん剥いて)

7月7日
やること多すぎるんじゃ!これは俗に「織姫と彦星の手も借りたい」と呼ばれる状態である。星なんか見てられるか!

7月6日
忙しっ。

7月5日
Laura Nyro『New York Tendaberry』を聴く。テンポが揺れまくっていて、よい。これだけ揺れていると、意図的か否かということは大した問題では無い。揺れている「から」良いのでもなく、揺れている「のに」良いのでもない。ただ、よい。樹齢ウン百年の木が持つクネクネ感と全く同じ魅力である。歌を中心にして楽器の音が配置されているコンセプトにも共感できるわ。所々神憑った歌唱には「慈悲」と呼ぶべき趣きがあって、初夏よりも真冬に似合いそうな音楽。季節はずれであるにも関わらず、この魅力たるや!ニューヨークへ行きたいか!

6月28日
つづき。例えば、音楽を作るにしても、自分の中から湧き出てくるなんてことはないのである。主観的にはそう感じても、錯覚に過ぎない。あくまで自分の中に取り込まれた感動や記憶といった経験が、形を変えて捻り出されているだけである。この点に関しては、いずれまとまった形で文章化したいと思っている。単純でいて、壮大なテーマである。

6月27日
私は世界の摂理としてイロイロな概念を持っているが、そのひとつに「質量保存の法則」がある。これは物理の分野などで、A状態からB状態に変化する時に、その全体の量は変化しないという法則のことである。それは宇宙の規模で定義されているが、あくまで物理の世界において、である。私はこの考えは心理や表現といった「非物理的な世界」まで含めたあらゆる現象に当てはまるのではないか、と考えている。今の所、これが覆りそうになった記憶は無い。

6月26日
マイケル・ジャクソン。うーむ。洋楽などほとんど聴いた事無かった時分から彼のパーカッシブな歌唱には聴き慣れていたように思う。それは、歌の1要素である「楽しさ」がリズミカルな譜割りとダンスとの連携によってデフォルメされていたからだと思う。そうした「楽しさ」によって、誰かに夢のような時間を体感させるというのは肉体的にはおろか心理的にも、とてもハードな行為なのだったろう。私たちは彼のような「スター」を、非日常を体感するために観に行く。それは、ほんのひとときである。だから、終演ともなればアンコールが会場を包む。もうちょっと、なんなら、いつまでだって見ていたい、そう願う。しかし、実際に非日常に身を置き続けることは出来ない。それを誰もが心のどこかで分かっているからこそ「もっと見ていたい」という気持ちになるのであって、本当に非日常の世界観を日常に持ち込むと、人間のバランスが崩れてしまうのである。それを類まれな才能と努力によって、ギリギリのところで成し遂げる人々の事を、「スター」と呼ぶのである。彼の存在によって、私はそれを知った。否、正しくは知ったような気になった。マイケルと同じ境遇にならない限り、本当の気持ちなど何人たりとも理解出来ないのだ。遠く離れた島国から確実に分かる事は、偉大なエンターテイナーが逝去したということだけ。

6月21日
『レスラー』という映画を観に行く。華やかさと虚しさ。両方を抱えて、見世物のリングに上がる。プロレスには詳しくないが、好きである。アメリカ映画に珍しく、せつなさを感じた。

6月20日
腹減ったナァと思いながら寝転がって読みかけの小説をキリの良いところまで読んでしまおうとしている時に思った。花より団子という言葉がある。これを、表現者としての目線・心構えの観点から言い換えようものならば、「団子より花」と思わせられるか?ということになる。音楽など所詮は生活必需品ではない。だから「NO MUSIC NO LIFE」なんてキャッチ・コピーが目を惹くのだ。「NO FOOD NO LIFE」では、当たり前すぎるでしょ。もしも無人島に行くとして、何かひとつしか持っていけない時に、果たしてどれだけの人が「音楽」を選ぶであろう。恐らく大半の人は、食料や寝具などを選ぶと思う。命あっての物種、である事を前提にして、「団子より花」となるための方法は二つ。団子よりも必然性を増したかのように錯覚させる香しい花となるか、団子の味を引き立てる麗しい花となるか。今日、私の空腹を堪えさせた小説は前者であると言える。「飯を食いに行くよりも、もう少し読んでしまうほうが自分の人生において有意義である」と判断したということや。そうして俺は、「清兵衛と瓢箪」を読み終えたのだった。

6月19日
志賀直哉「剃刀」を読む。この作中の「自意識がビンビンになって炸裂する」感覚がよい。それはあくまで、炸裂する感覚が文体によって表出されていることがよいのであって、炸裂そのものがよいという意味ではない。しかし、時には炸裂しそうになるのである。だから私はそんな時に「剃刀」を読み、その鋭利で冷淡な文体によって、不可思議な安堵感を得ようとするのである。梶井基次郎「檸檬」などもそうである。

6月16日
自分で「負けないで」を歌いながら走っている人を見かける。負けないで欲しい、と思った。いろいろなものに。少なくとも彼は、路上で、ア・カペラで、歌を歌うということに恥ずかしさを感じる自分自身には負けていないのである。ただし、歌うことを我慢出来ないという意味では負けているのかもしれない。もしくは、携帯型オーディオ・プレイヤーを買えない、という負けかも知れない。はたまた、買わない、という確たる意志があって、容易に企業に踊らされていない、という勝ちかも知れない。ま、勝ち負けなんて考え方次第ということである。であるから、「負けないで」いようとする事はとても大切なのだ。

6月15日
暑い。この湿度を何とかしてくれーノドには良いがね。

6月14日
選挙で当選したときに、バンザイするのって変ですね。ゴールじゃなくてスタートなんやから。陸上選手がクラウチングスタートの体勢から即座にバンザイしたら「何してまんのん?」となりませんか。それまでに大変な苦労があったというのは分かるんやけど、どんな競技にしても、職業でも、戦いの場・試される場所に行くまでに何かしらの困難はあるわけです。選挙には「立候補」というプロセスがあるから、達成感が産まれるのは分かるのですが、当選した暁には、厳しい表情で、拳を握り締めていて欲しいと思います。その眼差しが明日の政治を創っていくのですから。ゴールは、次のゴールへのスタートなのです。(日めくりカレンダーみたいになってきたな……)

6月13日
子供たちと触れ合う。瞳に濁りがない。「はっ」とする。高―い山の上のほうに流れる水みたいな輝きである。私の瞳の奥からは、カーネル・サンダース人形が発見されそうである。少しずつキレイになってきているぞ、ということである。一度は恐ろしく濁っちまってたぞ、という意味でもある。

6月12日
第七藝術劇場まで市川準監督『大阪物語』を観に行く……が、上映時間に間に合わず、入場制限のため入れずに帰ってくる。思い出の映画やっただけに、とっても残念であったが、市川準追悼上映のトリということもあって、えらい盛況やったそうな。まぁ、それならええか、と勝手に納得し、十三界隈をうろついて帰る。ムフフ、な街である。ムフフとトホホを道連れに「ENDLESS SUMMER NUDE」を脳内ENDLESS再生で眠るのであった。めがね橋の夢がみれますように…

6月11日
Jimi Hendrixの演奏って、紛れもなく音楽やな。さう思つた六月のゆふべ。テクニックやリズム感や相対音感(絶対音感は音楽とは完全に無関係です。鼻の骨が鳴る、手首がものすごく曲がる、ホクロから毛が生えてる、とかそういう次元の才能)とか、音楽を取り巻く要素・才能はイロイロあるけど、それらが音楽として結実するかどうかってのは「センス」に尽きると思うわけですよ。「音」という糸を「才能」と「努力」で紡ぐ。それが、変哲のない雑巾になるか、唯一無二の服飾になるかは「センス」次第や。そういう意味で、Jimi Hendrixの演奏は、音楽にとっていかに「センス」が大切であるかということを思い出させてくれるのである。忘れそうになるからね。実際問題、カネ儲けだけの音楽なら、もっと違う才覚がものを言うであろう。しかし魂を揺さぶるためには、センスが不可欠や。さう思ふ。さて、この「センス」というやつがやっかいでして。目に見えない。つまり、観測・測定できない。よって、分析も出来ない。ものさしが作れないのですよ。故に、抜群に奇怪でいて突き抜けてPOPなギターサウンズは2009年の日本をCMソングとして響き渡ってゆくんやねー。職人の世界や。ここまで来たところで、日本の職人の凄さを逆輸入的に感じた。手広くの器用ではなく、不器用さを突き詰める、ということの凄み。薄利多売の器用より、唯一無二の不器用になりたい。

6月10日
くわえタバコでジョギングするおばちゃんを見かけた。健康になりたいんか一服したいんかどっちやねん、と思った。私は紛れもなく関西人である。埃に思う。もとい、誇りに思う。

6月9日
テンパッテきた!テンパッテきてる!やる事多すぎて!面白い顔で踊ろ!WAになっておどろう!ストレス解消ダンス、エーンド、ターン。いっぱいいっぱい。エイドリアーン!ハウス!ハウス加賀谷は今何をしている!ボキャブラ!ボキャブラリーの狭さに我ながらの乾杯☆乾杯!トークそんぐ。深夜の野村啓司アナウンサー。メガネノムコウの眼力の印象とその様子。ありがとうございました。
眼力
6月8日
ホクロが出来る瞬間を目の当たりにする。なんとな〜くカサブタみたいになってたから、かきむしってたら、ちょっとずつホクロになった。ホクロをずっと触ってると、変な気分になりますね。これまた人体の不思議や。

6月7日
とつぜん、キンニクツウがおそってきた。どうしますか?1、ようすをみる。2、たたかう。3、次期総裁について考えてみる。4、にげる。サンゴはようすをみている。サンゴはようすをみている。サンゴはようすをみている。キンニクツウはにげていった。サンゴはたたかいにかった!「すごしやすいきせつ」をてにいれた!

6月6日
太陽の下、肉体を酷使する。久しぶりの心地よい疲労感である。疲労にも心地よい・悪いの2種類あることを知ったのはいつの日か。恐らく、十代で感じ得た疲労はすべて心地よい方である。年を経るに連れ、心地悪い、重たい、解消されない疲労感が増えてきている。血に溶けて体の隅々まで侵して行くような疲れ。今日はそういう意味で、とっぷり眠れそうである。大人の子守唄、やしきたかじん『The Vocal』を聴きながら眠る。

6月5日
この世にマイナスという値は存在しない、という話しを聞いた。単純でありながら、深い概念である。「気の持ちよう」という感覚とリンクするね。基準となる符合さえ変えてしまえば、すべては表裏一体、ネガとポジ、なのである。衝撃的な芸術に触れた瞬間に、世界の見え方が一瞬にして歪むのも、この感覚なんやろう。数学は、とっても面白くて、難しい。数学というのは、「数」という単純な区切りを用いて、概念を操る練習をする学問である。と思う。練習ではない数学そのものの世界もあるが、こちらは才能がない限り足を踏み入れることの出来ない世界である。恐怖感すら漂う世界である。私には、立ち入る事の出来ない世界である。だから私は、数学者を尊敬する。祥本サンゴは数学者を応援しています。

6月4日
「また僕をくすぐった〜〜〜〜〜」というフレーズが夢の中で鳴り響き、超・久しぶりにGRAPEVINE『覚醒』を聴く。夢を凌駕する音が、そこにはあった。名作やなぁ。初めて聴いた頃に比べて、本当にいろんな種類の音楽を半ば消化不良気味に聴き漁ってきたわけやけど、この作品に関しては聞こえ方が変わらない。いい音楽であることの証明であろう。ただ、そのバックグラウンドにPlastic Ono Band『ジョンの魂』みたいな70年代の英ロックの音像があるということは理解出来るようになった。ような気がする。
ジョンの魂(のつもり)

6月3日
芥川賞作品を読んでいると、それらは「時代性」という共通項でくくれることに気付いた。文学作品としての純度・完成度の高さというよりも、題材・設定または文体から得られる感覚、果ては作家のヒトトナリなどが「今風」であるということが第一の基準であることが分かる。まぁ、結果として押し並べて完成されていますがね。「今風」であろうとすると、必然的に完成されるわけですな。ざぁーっと最近のものを読んだ中で、伊藤たかみさんの『八月の路上に捨てる』が特に良かったなぁ。一日、という設定が良い。

6月2日
我が家はテレビを買い替えて、地上波デジタルになった。街の電気屋さんに配送・設置してもらう様子を家族総出で見守るという戦後間もない頃のようなリアクションの大きさであった。力道山が見れるよ!てかリキドウザンって一発変換出来るし。どんなけ偉大やねん。デジタルはテロップの文字がやけにクッキリしてまんな。パソコンの画面みたいな質感や。果たしてそれが良いのか悪いのかはいざ知らず。「志村けんのだいじょぶだぁ」もよりいっそうだいじょうぶそうである。は?とりあえず番組表は便利や。天国からナンシー関さんのご意見頂戴したい。なんでもデジタルにしやがって!「なんとなく」の領域がどんどん減っていく気がするわ。何もかもがクッキリハッキリしていく、コントラストの激しい社会の到来や。おめでとう。

6月1日
優しくありたいと思う。何に対しても。しかし、とても難しい。時には冷酷なまでに厳しく、ともすりゃ憎しみすら生むこともある、優しい、というのは本当はとても難しい。俺は、優しさを伝えたい。本当の優しさを。そして、それを伝えきることが出来たと、心の底から思える日が来たら、死んでもよいと思う。つまり、それを伝えられない限り、死んでも死に切れん、ということじゃ。

5月29日
『ゴジラ』『3−4×10月』『楢山節考』『HEAVY METAL』を立て続けに家でこっそりと鑑賞。準ひきこもりである。

5月28日
足の小指を結構な勢いでぶつける。イタイ。「小宇宙」と形容されるまでに進化した人体において、これほど情けない部位はない。しかし、ここがイタイと感じないと、もっと重大な危険が生じるからイタイのである。すべての痛みには理由がある。負の感情には原因と同レベルで理由があるのだ。すべての負を愛せるように成れた時、悟りが開けるのである。シャカは小指の痛みなど何とも思わなかったはずである。深夜の涙目を独り慰めてみる。

5月26日
チェ・ホンマンって、小さなテレビで見ても大きいな。あの巨体と反する繊細そうな眼がまたええわ。お化け屋敷に入ったら、恐怖のあまり屋敷ごと壊してまいそうやな。そしたら彼を見て人々はこう言う「この、屋敷お化け!」。そう、彼は屋敷をも凌駕してしまうバケモノだったのである。めでたしめでたし。……んごごごごご。なんだ?バ、バケモノ…何がめでたいんじゃ…海の向こうの大地が不気味に揺らされている…巨人の足並みか、いや…別のバケモノがうごめいておるぞ!

5月25日
原因は足か?靴か?俺か?クッサー(鼻声で)。靴下ってなんであんなに一日で臭くなるんやろう。もしや、何かの重大なメッセージなんやろうか。例えば、思春期の女の子が「お父さんなんて嫌い」なんて言っちゃってパンツ別にして!みたいな状況は今まさにこの瞬間でさえ地球上に20000世帯くらいはあると思うんやけど、あれは近親相姦なんかを防ぐために臭く感じるようになるんやってね。だから、加齢臭と呼ばれるニオイともちゃうわけ。正しく父親のニオイだけを嫌わざるを得ないということですよ。20000人のお父さん、安心してください。ということで、その考えを代入しますと、足には近づくな、というメッセージなんですね。無闇に近づいては、襲われるぞ、という。風呂上りなんかは特に要注意ですね。ヤツら一時的に誤魔化しますから。「フローラル・グリーン」とか。んで、タッグやで。極悪や。風神・雷神、ビューティー・ペア、修二と彰に至るまで、古くから2人組というのは戦にとって有効な形態なのである。平和ボケした人類を嘲笑うかのように、凶暴化した2本の足が襲いくる。うわぁー。アルバトロスさん、映画化しませんか。
岡八朗

5月24日
最近クシャミ出るからインフルったんかと思ったが、どうやらこれは花粉症や。現代っ子の仲間入りだぜ。俺に付いてくるのは花粉だけか。お前たちも花粉にならないか!はっ!

5月22日
今日の探偵ナイトスクープで取り上げられた落語「芝浜」の内容に感動したわ。初めて知った。いい話しや。とてもいい。美しい。愛の物語やな。愛は、とても抽象的な概念や。ゆえに手軽に扱える題材やけど、扱いこなすのは至難。「芝浜」は高度なレベルで愛を描いた作品や。単純ながらも飽きない。高度というのは、デフォルメされた分かりやすさと構成の巧みさが絶妙なバランスで成立しているということや。マザーテレサも愛なら、前夫の連れ子を虐待死させて押入れで腐乱させるのも愛。愛は究極の主観。けれど作品化するには客観が必要。だからムズイ。主と客の観点のつながりって、先天的な気がするなぁ。天才って呼ばれる人たちは、この辺りが上手いと思う。努力して何とかなることじゃなくて、主観ですることがそのまま客観として通用する、みたいな。イチローとバットとか。北島康介と水とか。もしくは、凡人と「ひらめき」とか。

5月20日
ゴーヤって、熟れると甘いんだってね。にがうりのくせに。これはもう「名前負け」ならぬ「名前勝ち」や。甘なったったど、ちゅうて、自らの名を超えるんや。腐る一歩手前や。そこにスイートなポインツが在る。腐ると思とったら、大間違いじゃ!ちゅうて。だから、これからは「ゴーヤ師匠」って呼ぶわ。ゴーヤチャンプルも「ゴーヤ師匠のチャンプル」や。略して、ゴーヤ師匠チャン、や。敬ってるのか蔑んでるのか分からんな。「アグネスチャンさん」の逆や。は?あかん、はよ寝よ。

5月19日
テアライウガイを欠かさない俺とは無縁の存在、インフルエンザ。疫病ってちょっと神がかってる存在ですね。そう思わないと、発生する意味が分からん。自然淘汰の一種なんやろう。こうなったら形勢逆転、インドア派の勝利や。何かと内省的、非・行動的と印象付けられるインドア派、もとい、もやしっ子の魂百までの気概。根暗、ジメジメ、陰湿、が勝ち誇る瞬間。外へ出るも、内へ入るも、危険なことに変わりはないんじゃ。わっはっは。という完全に根暗の発想。祥本サンゴは全国のもやしっ子を応援しています。

5月13日
DOKAKA『ヒューマン・インターフェイス』を聴きながら歩く。いろんな意味ですごいわ。いろいろ凄すぎて最終的には「ビックリ」した。しかしまぁ、逆輸入の典型みたいな方ですね。ビョークから声がかからない限り、知る人ぞ知る風変わりな人で終わってたんやろなぁ。録音場所は集合住宅なんやろか。隣人はどう思ってたんやろか。いかに高度な事をしているか知らしめるという意味で、日本の居住スタイルまで含めて輸出して欲しいわ。キャッチコピーは「You can't hear this voice.It’s only music.」なんてどうでしょう。筆を選ばない事によって弘法になろうとしている、ちゅう感じですな。独りで演る、というコンセプトを抱える者として、刺激的でした。応援します。影ながら。ビックリした。

5月12日
夜が深まるとともに天気予報どおりの雨が降ってきたわ。石原良純さんが、予報に100パーセントは無いんだ、と甲高い声で力説してたのを以前見た。この世の定めよのう。100パーセントの無い世界で、何が残せるというのだろうか。99パー詰めても、1パーに裏切られる可能性が常にあるのよ。だから不安でしかたないし、麻薬的におもしろいのだが。おもしろがってるだけでは、何も残らんのよのう。かいーの。心の奥がかいーの。

5月11日
宇宙空間が膨張していくイメージに耽っていると、「自分とは何か」という問題がとても些細なことにも、何よりも大切なことにも思えてくる。人類って何でしょうか。物理や化学で説明出来る範囲の「なぜ」はまだ分かるんやけど、それを超えた「なぜ」が正真正銘の不思議やな。問うということが大切、なんていう宗教的な価値に行き着くのかねぇ。それともまだまだ本質的な理由があるんやろか。本質なんて、それが本質に見えるというだけの現象に過ぎない、とも考えられるのだけれど。知りたいぢゃん。そこんところ。待てよ、知りたいと思うから本質なのか?知りたいと思うことが本質なんか?はて?寝よ。

5月10日
天保山サントリーミュージアムに「インシデンタル・アフェアーズ」という展覧会を観に行く。副題は「うつろいゆく日常性の美学」で、時間の流れが持つ普遍と異様がテーマ。現代美術にカテゴライズされるから、正直訳分からんわ、ちゅうのも少なくないのだけれど、いくつかは印象に残った。ウォルフガング・ティルマンスの写真に写る時間そのもの。宮島達男さんの「MEGA DEATH」は果てしない流れる生命を限りあるデジタルで表示する詩的な世界観。そして青い壁の圧倒的な美しさ(既知感あると思ったら、近所の図書館に同じ作者の作品が設置されてた)。東恩納裕一さんの「シャンデリア」は日常が非日常へと昇華される作風で、どこにでもあるような蛍光灯が寄せ集まるだけで、おどろおどろしい生命体に見えたわ。蛍光灯の逆襲や。これらの作品は観るだけで感じ取れたんやけど、例えば、アニッシュ・カプーアの「物体としての空間」なんて、ぱっと見て「ただの泡やん」と思ってしまった。でも、解説文を読んでみると「アクリル内部の気泡を物質に見立て、虚と実を逆転させた作品である。」なんて書いてある。つまり、泡に見えた空間は物質として存在してなくて、むしろその周辺としか見えなかった四角いアクリルのほうが確かにこの世に存在している。あなたは本当は何も見ていないのかも知れないよ、という作意が、見るだけでは伝わってこなくて、解説を読んで初めて理解できる。表現がカテゴライズされると、どうしても出来る事(してもいいとされている事)の範疇が小さくなってしまって、手法というものが巧妙化せざるを得ないのは分かるが、それでいいのか?作品とは、作品そのものではなく、作品のプレゼンテーションそのものだ、みたいな考え方もあるけど、俺はそれは違うと思う。観て、聴いて、触れて、たったのそれだけで何かを感じ取らせないといかん。感じ取らないといかん。と思うのだ。説明なんて金魚の糞や。とはいえ、分かりやすさだけを求めるのも違う。テレビなんてそのせいで、クイズと料理と動物ばっかりになったわけやし。

5月9日
桂枝雀さんの落語って、ときどき「恐怖」に近い感覚を想起させるな。緊張感を突き詰めた結果なのか?笑わざるを得ない、という趣や。追い立てられた先に、感情の袋小路があって、そこには「笑い」しか存在できない。あらゆる感情が混ぜこぜになったら、笑いが勝ち残るのかも知れん。すべての感情がある種のまやかしだとするなら、「笑い」は最も強力なまやかしや。薬であって、毒や。節度が大切や。ご利用は計画的に。

5月4日
我は思うた。『トランジスタ技術』たる雑誌のバックナンバーの背表紙の群れを図書館の片隅で見詰めながら。例えば、トランジスタというものが、真空管の次代を担う技術として産み出されたことを我々は至極当然の事のように人類にとっての「進化」と呼ぶだろう。しかしだ、それは紛いなき「進化」なのか?と。効率が良くて、時間が短縮でき、より多くの信号・情報を処理できることだけが人類の恒久の課題なのか?と。そこで、聞こえてくる。そよ風に乗って聞こえてくる、底抜けに優しい、運動会の帰りにおばあちゃんが買ってくれた250ミリリットルサイダー飲料のような声。内ポケットにいつも〜トランジスタ・ラジオ。我は考えた。トランジスタがなければ、この曲は産まれなかっただろう。そして、ここからが大切。この曲がなければ、トランジスタは産まれなかったようなものじゃないか?と。この曲で歌われる屋上の心象があって初めて、トランジスタは地球上に存在出来たんじゃないか?ってね。これこそ芸術が持つ意義なんやと思うた。トランジスタの技術によって、ラジオはそれまでとは比べ物にならないくらい小型化・低価格化・低エネルギー化した。そこまでは、あくまで技術の範疇に過ぎない。それが、屋上の内ポケットに入ったとき、ホットなナンバーが聞こえ、空にとけてったとき、やっとこさ技術が紛いなき「進化」になれたんや。人間の体温が宿る、ツールになった。思いが空を、確かに飛んだ。紛いなき進化やろ。んで、歌うことで「進化」させたんや。人類を。たまらんね。グッとくるわ。アートとテクノロジーってのは、相反するだけやのうて、相乗効果を産み出すっちゅうこっちゃ。

5月3日
忌野清志朗さんが逝った。一度は肉眼で、直接にその音を聴いておきたかった人や。後悔は先に立たぬのならば、いま出来うる限り多くのものを観、聴き、触れ、呑み込み、吐き出し、生きてゆかないといかん、ということや。残念、だがキヨシローは死なない。観念の話しではない。日本語で音楽を創ろうとするとき、彼の残したある種の美学(黒色人種に端を発するブルース・ロックと総称される類の音楽的感覚を頼りに日本語を用いて歌う際における、歌いすぎず叫びすぎずといった「示唆」の美学、限りなく良い意味で俗っぽく言うと「ヘタウマ」)が必ずどこかで顔を覗かせるからである。そして、その声の持つトーンや抑揚が、「源泉」として湧き続ける。J−POP(良い意味)の黎明期を支えた者の宿命として、生き続ける。とんでもなくオリジナルな人やったなぁ。合掌。または合唱。

5月1日
Frankie Knuckles『The God Father of House Music』を聴く。解消されぬマイノリティーの快楽が達成されようとする時、4つ打ちは半ば必然的に産み出されたのだ、と想像する。シェイク・ヨァ・バディー、体を揺らすためにはバスとスネアの狭間の揺らぎなど不必要であった。ところが、必要最低限のミニマムな手法(同フレーズの繰り返し、杓子定規なリズム)が図らずも提示したものは、正反対のとんでもなくマキシマムな揺らぎであった。それは恐らく、1〜2時間はその音(またはその場所)に身を委ねないと感受出来ないもの。地球とか宇宙の胎動と共鳴しようとするような音。ここで大切なことは、「共鳴している」のではなくて「共鳴しようとする」という点である。続けてLarry Levan『Live at Paradise Garage』も聴くが、こちらはあまり入ってこない。よりDJ寄りの手法である。両者も含めハウスやテクノと形容される音楽は、派手で高圧的な音像の向こう側に、ある種の寂しさが漂っている。即時的な道具としての否応なきテンションの高さと、誰のものでもないという虚しさが、しっぽりと同居している。昔テレビで見た歌舞伎町ナンバーワンホストの部屋の内装と限りなく似ている。詰まるところハウスミュージックの魅力とは、擬似的な宇宙との共鳴から来る「陶酔感と違和感の揺らめき」なのである。なんだか否定的な響きの文になったが、とても好きな音楽です。ナンバーワンホストは嫌いやけど。


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