祥本サンゴの日記。略して「祥本サンの日」
祥本サンの日


2008年

3月2日
今日から日記はじめます!なんて、いままで何回も挫折してるけど…ノート買ってきて日付の線だけ引いて本棚入れたままとか…最初の数行だけ書きこんであるメモ帳が数冊あったり…頑張ります。たぶん。

3月3日
トリニトロン完全生産中止か。時代は静かに終わるのだよ。オリジナルがオリジナルでなくなり、伝説になる。俺も伝説になりたい。「祥本サンゴ伝説U」。ゲームボーイのソフトっぽいな。ジャレコあたりが発売。制作はよく分からん有限会社。アクション要素を多分に取り入れた画期的なRPGのはずが中途半端なテーブルゲーム然。とはいえ他のヒット作にも恵まれず、中途半端なまま第二弾。制作陣の内部派閥化および契約社員Yさんの制作費着服などの災難に見舞われ社内は火の車。企画は空中分解。伝説のクソゲーとなるはずが、図らずも「伝説」となった…とさ。とりあえずオリジナルになることを目指します。

3月4日
録音兼練習部屋の模様替え&掃除。電気は大切だということに気付く。ありがとう電気。

3月5日
サンゴの日だーーーサンとゴの日だったーしもたー

3月6日
まどみちおさんの詩に感動しています。前から好きやったけど、やっぱりいいね。全部いいわ。すげぇなって思う。私は「するめ」という作品を読んでまどさんにハマりました。これはきっと一生モノの出会い。ご本人をこの目で見てみたいものです。星飛雄馬のお姉さん的な感じでいいから。チラっ

3月7日
春の気配が漂っている。そんな夜です。

3月8日
前世小麦かってくらい最近パンばっかり食ってます。そんなこんなで連日スーパーのパン売場ウロウロ。まぁね、カロリーが気になっちゃう訳です。高いほう。そう、低いほうぢゃなくて。安く腹を満たしてくれと。いや下さいと。翼をください。すると素敵なパン発見。平均200〜300calの華やかな装飾を施された菓子パン達が所狭しとひしめく中、夢の500calオーバーを軽々叩き出した怪物、「ロシア」。ポケモンのキャラにも頼らず、飛道具的クリームなど見向きもしない。見て取れるのは表面にうすーく塗られたマーガリン的な艶。惚れたぜ。その潔さ。この情報化社会の中、リテラシーのど真ん中光り輝く、艶。でもね…昔見かけちゃったんだよね。ハッキリとした記憶ではないけれど…さらにでかい「大ロシア」っていうバケモノみたいなのがあったような…いつか出会いたい…

3月9日
Conjure「Cab Calloway Stands In For The Moon」の再発盤を聴いた。確かにカッコいいのは判るけど、作品の内面にまで入っていけん。そこまで俺に音楽的な耳が無い。3年くらい前に出た『ミュージックマガジンの500枚』ちゅう本を頼りにしてイロイロ片っ端から聴いてきたけど、まだワカラン音がヨォサンあるわ。世界中にはまだまだ知らない音がヨォサンある。そして方法さえ問わなければ知れない音は少ない。ということだけ分かってきた。ワクワク。

3月10日
もはや文化と称しても過言ではない「メイド喫茶」の前を通りかかった。ガラス戸越しに中を覗いたけど、とてもアットホームな雰囲気やん。客が本当に楽しそう。そりゃ行きたいやつだけ行くんやしな。ありゃ「嘘」であるところがええんでしょうな。仕事としてメイドになってくれてる女の子が「嘘」やから信じることが出来る。もしかして、信じることが出来るのは「嘘」やと分かってるからなんかなぁ。「本当」なんて言われると疑いたくなるもので。キリストなんて地球上最高の嘘やね。2番目はムハンマドかな。3番目くらいにはなりたい祥本サンゴです。いや、私は真実ですが。新興宗教の教祖みたいになってきたな。トランスミュージックをBGMに据えた自己啓発ビデオでも作るか。以上すべて嘘です。信じてください。とりあえず勉強がてら現代的エルサレム「メイド喫茶」に入ってみるか。嘘です。信じてください。リピート。アーメン。アーメン終止。

3月11日
お好み焼き食べたい衝動に駆られ、野も越えず山も越えず近所のスーパーへ。テキパキ作って食す。うまいむベッサッソっ。つくづく思うが、料理と音楽は非常に似ている。食材を揃えて調味料で味を整え皿に盛って召し上がれ。音を出して音響機材でエフェクトしてCDなりステージの上でお聴きあそばせ。ということで、いずれはディナーショーを開催したい祥本サンゴです。

3月12日
ザ・晴天でしたので、散歩。しばらく通ってなかった道歩いたら、家だらけ。田んぼが家になっとるわ。「移民の歌」全力で歌ったろか。どこから人が来るんや。1人っ子政策や。でも少子化…ややこしや〜ややこしや〜

3月13日
俺がこの世に生を受けた病院が開発の波に飲まれて冠婚葬祭ホールに建て替えられてた…別に記憶にはない場所なんやけど、ちょいとセンチメンタルやん。

3月14日
あーホロヴィッツみたくピアノが弾けたらなぁ。あんなことやこんなことをするのにさ。

3月15日
密室ライブ準備。

3月16日
BELDEN8412とカナレf15でケーブル作り。何回か作ったので、徐々にハンダの扱いが上手くなってきた。かな。DIYの精神に則ってます。日曜日の朝は「住まい自分流〜DIY入門〜」の再放送で目覚めるのさ。司会の女性が回を増すごとに積極的に発言するようになってきて、非常に好感を持ちますな。うちのばあちゃんなどは俺が木を切ればやれ切り屑を片付けろ、ノコギリこんなところに置いたら危ないだの。ネジ止めする前のボンドの仮止めしてても、ドア閉められへん、もっと邪魔にならんとこ置いて、そんなことほんまにせなあかんのか、などなど。察するに、全国のDIY好きおじさん達にも同じ思いをされてる方がたくさんおるのでしょうな。ご夫婦、ご家族で楽しまれてるとすれば、また違うと思いますが、って何の日記ぢゃこりゃ。ま、極力手作りでやってみたい祥本サンゴなのです。ホンマは全ての楽器も自分で作りたい…

3月17日
毎年毎年飽きもせず、卒業シーズンや。今日は近所の学校が卒業式で、華やかな娘さんたちがいっぱいおったわ。時が過ぎ去っていってる感に襲われる。こんな気持ちは高校卒業した時に春のセンバツ高校野球をテレビで見て「コイツら全員年下か」と思った時以来や。焦りは禁物やけど、そろそろ「結果」が必要やなぁ。はふぅー

3月18日
とりあえず半月は続いたな。日記。絵日記にしようかな。

3月19日
ハーモニカ演奏についてしばし考察。HOHNER製「MARINE BAND」特有の水分を含んで膨張した吹き口部分の木がはみ出して唇に当たる痛みに耐え、格差社会をも乗り越え、それとなくベンド奏法を体得。やった。もう少しでリトル・ウォルターになれます。顔ボコボコになります。

3月20日
大相撲連日満員御礼やな。人気があればなんでもできる。ような気になれますな。スモウは儀式っぽくてよい。これからは儀式の時代です。そうカタルシス。カタルシスってどういう意味か分かりませんが。

3月21日
朝起きてすぐって割と夢の内容覚えてるなぁ。んで、思い返したらすごい変な内容やったりするのに、夢見てるときに変やと思ったことないなぁ。何でやろ。今自分が見てる夢も後で思い返したら変なのかも知れないと思ったら、不安になるぢゃん。Zildjian。

3月22日
近所のリサイクルショップにたまに行くんやけど、そこのジャンクコーナーで発見したYAMAHAの小さいキーボード衝動買い。1000円やったし。portasoundという一世を風靡したキカイらしい。オモチャっぽさと作りのよさが同居してる不思議さに惹かれて連れて帰りましたが、これまた音もいいですなぁ。だいぶ内臓スピーカーがヘタってるんやけど、そのヘタリ加減もいいですなぁ。デンチで動くし。軽いし。いいぢゃん。

3月23日
ニュータッチ「横浜もやしそば」旨い。トロトロ。もやしっ子の常備食さ。全国のもやしっ子たちを全面的にバックアップしたい祥本サンゴです。このカップ麺には後入れの液体スープが付いてるんやけど、その袋の表面には「フタの上で温めて…」と書いてある。日清「ヤキソバUFO」なんかで知らず知らずに皆が覚えた(編み出した?)裏技が、今や別会社の商品の内袋に記載されてるわけです。亜流は本流になり、本流は亜流に入れ変わる。そしてまた時代は繰り返す。時代という激流の中を、一本のもやしのように流れ流されてゆきたい祥本サンゴなのです。萩原流行はウエスタンハットなのです。

3月24日
なんや寝てしもたわ。明石家電視台さえ見ずに。クイズ紳助くんさえ見ずに。かつみさゆりのなかよしがいちばんさえ見ずに!ボヨヨーン

3月25日
フィリップ・ブロフィ著『シネ・ソニック音響的映画100』という本を買う。「音」を頼りにした映画の評論。おもしろいわ。いわゆる「音楽映画」だけを対象にしている訳ではないのが特徴。映像そのものを聴くような感じ。取り扱ってる作品で観たことあるのは「肉体の門」「タクシードライバー」「黒いジャガー」「ミツバチのささやき」、テレビ放映とかでちょっとだけ観たのは「AKIRA」「ドラゴンへの道」「フェイス/オフ」「地獄の黙示録」「バイオハザード」「猿の惑星」。ありそうでなかった切り口がいいですな。人類が無意識に気付いてたけど言葉にはしていなかった部分というか。盲点。「AKIRA」はマンガでは全部呼んだことのある大好きな作品やけど、登場人物の放つ波動のようなもの自体が音と本質的に同じであるという大胆な指摘はとても興味深い。物語終盤で宇宙空間に飛んだ時に劇中は「無音」になる。音は空気分子のゆらぎでしかないから、空気のない宇宙空間では音は存在しない。無。物理現象の説明でもありつつ、地球のアンチテーゼとして宇宙をとらえることで人類の決まりや付随する芸術活動などを批判していると。あえて無音を聴かせると。音なんてその程度でしかないのだと言われるカ・イ・カ・ン。M男。静寂は音楽の基礎である、とは芥川也寸志さんの言葉です。その程度の中にこそ、永遠の感動があるのだよ。という意味に僕は受け取ります。わっはっは。名著『音楽の基礎』の精緻な文章とは対極を成すようなラ・ン・ピ・ツでお送りしました。

3月26日
「北新地鳥屋」の手羽先の旨さに感動。これでもう少し長く生きられる気がします。寿命2日分くらい。

3月27日
音律について考える。電子ピアノの狂うことのない平均律に慣れまくってきたので、気分転換にその他の音律を試す。キルンベルガーが良いカンヂ。

3月28日
高校野球の実況中継は音楽やと思ふ。金属バットの「かーん」という音が、甲子園の空の広さを、その「残響」を教えてくれるんよ。イッツ・ア・サウンドスケーープ。狙うは逆転ホーームラン。

3月29日
オールスター感謝祭はなぜか見てしまうなぁ。言うほどオールスターぢゃないのに。ヌルヌル相撲もちょっと飽きてきたのに。あれって5時間くらいあるから、人生80年としたら80×365日×(24−睡眠6)時間=約53万時間の総暇つぶしタイム。53万÷5=約10万ハーフ。だいたい人生の10万分の1を使って見てるんやなぁ。命懸けや。あと10万回オールスター感謝祭見たら死ぬんやなぁ。でも何週間後かの日曜日の昼間に再放送もあるから、最低同じ内容を2回見てしまうやろ。そしたらあと5万回や。あと5万回しか見れない!なんて、ショーモナイ日記書いてる間にも時間は過ぎていきますなぁ。

3月30日
雨が、しとしと、降ってるよ。(声が、遅れて、聞こえるよ。風に)

3月31日
あんれまぁ平成19年度も終わりを告げますか。決算。ご破算。大誤算。おかあさーん。

4月1日
社会の流れとしては4月が区切りやのに、結構しれーっと始まるよね。正月はあんなにミンナ浮き足立つのに。ここ数年浮き足立った記憶が無い祥本サンゴです。本年度もどうぞよろしくお願いします。

4月2日
RolandのVS-1880をエフェクターとして使う案を考え中。これはいいぞい。実現すればオモシロいことが出来る。はず。ただ、持ち運ぶのにはデカイけど。

4月3日
最寄り駅の近くの建物に違法駐輪禁止を促す看板が掛けてあるんやけど、そこにかのタモリさんの顔と思しきシルエットの落書きがあるのね。駅の近くということもあってもともと落書きの多い地帯で、自治体の人とかが定期的に消してるみたいなんやけど、そのタモリシルエットはもう何年もそこに描かれたままで。んで、見る度に思う訳です。「マッチしてるな」と。溶けこんどる。コンドルは飛んでいっとる。シルクスクリーンのような方法でスプレーを単色で吹いただけのシンプルな落書きなんやけど、看板との色合いといい、配置のバランスといい、奇跡的に完璧なんよ。恐らく落書き消す人たちもそれを落書きとは認識してないんちゃうんかなぁ。ま、落書きには違いないから社会的にはダメなことやけど、私はそんなタモリシルエットのような音楽を鳴らしたいと思うのです。だれも覆せない落書きのような音楽。とは一体何でしょうか。誰か教えて。コッソリ。

4月4日
あんれま、日記一ヶ月続いたべ。やった。半分以上訳ワカラン内容やけど。この調子で勝手に頑張ります。追伸:ジャージー牛乳ソフトがむちゃんこウマイわ。

4月5日
我が人生における初ライブから早2ヶ月が経とうとしています。栄えある「第一回祥本サンゴSHOW」における反省点を見事に克服し、栄光の序章、華麗なる一族、羊たちの沈黙と目される「第二回祥本サンゴSHOW」を心待ちにされている方が地球上くまなく探せば2、3人は居てると思いますので(静かに臨終の時を待つのみとなったジジイ、エスパー伊藤的な人、こっそりと潜んでる地球外生命体などなど)、出来る限り早くライブを開催し、4、5人には増やしたいと思います。思うだけでは何も変わりませんがね。むむ

4月6日
コカ・コーラ久しぶりに飲んだけど、これすごいな。改めて考えて見ると。訳分からんねんで。いや、この日記の内容ではなくて。味が。例えば同社の代表的な炭酸飲料ならどうだ。「ファンタ」グレープやらオレンジの味やろ。「ジンジャーエール」一応しょうが味やろ。その他諸々、挙げればきりが無い。そのとおりかどうかは別にして、必ず何らかの食べ物の味を模してる訳やん。ところがコーラ。コーラ味。無敵やん。素敵やん。いやまぁ各社からコーラ出ておりますが…それでもすごいね。このオリジナリティーに惹かれるわ。何も無かったところから「コーラ味」を確立してしまったところに。誰が作ったんか知らんけど。そこまで調べる気も無いけど。あと前から何処かで言おう言おうと思ってたんやけど、「うまい棒」ってあるやん。日本全国の子供たち(および一部の大人)の夢と希望とヨダレを一身に受けたチクワ状の菓子。これもすごいやろ。「うまい棒」やで。こんなんあかんやん。うまい、棒、やで。無敵やん。すて…。秋田のきりたんぽを筆頭に、魚肉ソーセージ、チーカマ(チーズカマボコ)、串焼き各種、チクワ、チクワブ、ごぼう天、ポッキー、細長い菓子パン。今思いついただけでもこれだけの「うまい、棒」があるやん。それだのに、やおきん「うまい棒」。うまい、棒、のデファクトスタンダードや。この傲慢さと言うか、「やってもうたった感」に打ちのめされるわ。10円の逆襲というかね。僕は「サラミ味」が好きです。本物のサラミよりも好きです。でも象さんのほうがもっと好きです。

4月7日
味のマルタイ「長崎ちゃんぽん」を食べる。肉やらエビやら野菜やらあれこれ具を入れてたら山ほど出来てしまって、ギャル曽根みたく食ってやった。ちゃんぽんと言えば太い麺が有名ですが、我が家ではこの細麺が紛れも無くちゃんぽんです。中学の修学旅行で本場のが出てきたときに、違和感あったの覚えてるわ。なつかし。

4月8日
森進一「おふくろさん」の作詞をされた川内康範さんという方が亡くなったそうな。その方のことは詳しく存じ上げませんが、去年の一連の騒動に関して思ったことは、「おふくろさん」という曲は歌い手の森進一でも作詞者でも作曲者のものでもなく、その曲を聴いて母親を思い出し、涙を流し、自分のことのように口ずさんでいたファンの方たちのものやということです。あらゆる表現および創作とは出産のようなものであって、この世に産声を上げ生まれでた瞬間から一つの生命として呼吸を始めると思うのです。せやから、今更いろいろ言うのは格好悪いなぁと思ってました。でも、今日ピーコさんがテレビで言ってたけれど、川内さんは普遍的な母への愛を詞にしたためたのに、森さんの「語り」によって森さん自身の母親に対する曲に縮小解釈されてしまうことを危惧していたんだと。それならナルホドとも思えますが。怒りの真相はよく分かりませんが、「おふくろさん」がしょうもない曲ならばあそこまで騒がれないということだけは確かなのです。安らかにお眠りください。合掌。

4月9日
無味無臭の一日であった。悲しい。不味くても構わないので、何らかの刺激は常に必要である。

4月10日
乾電池で動くCDラジカセ欲しいなと思って電気屋に聴き比べに行ったんやけど、どんぐりの背比べやな。音質には期待してなかったけど。ラジカセいいなと思ったのは、「聞こう」って思ってすぐ聞けるから。その過程が一番シンプルやん。i-tunesに代表されるような音楽ファイル管理・再生ソフトであったり、メモリーオーディオの類であったり、音楽の再生方法が複雑になってる。パソコン起動して諸々クリックしてオーディオインターフェイス立ち上げてソフト起動して聞きたいファイル探して諸々クリックして再生。コンポーネント方式のCDプレーヤーも据え置いてあるけど、その場所に俺が行かなアカンやん。上から目線やん。「聞かせて欲しけりゃコッチへ来い」と。勝新太郎クラスが呼んでるんやったら行きますけど。ということで、一番ダイレクトに使える再生装置は乾電池で動くラジカセやという結論に至った訳です。victorのナンチャラいう機種はザ・ラジカセという感じで音も心地よかったけど、乾電池ぢゃ動かない。んもう。ラジカセ自作出来るだけの知識と技術があれば。でもそないなったら、その才能を使って楽しく生きる方法を考えるか。

4月11日
電子レンジって、とっても、不思議やな。

4月12日
ピアノの鍵盤を俯瞰で捕らえれるようになってきた。気がする。人生のヴィジョンはドンドン狭まってる感ありますが。猪突猛進!おーコワ。Jeff Buckley「Grace」を改めてジックリコトコト聴く。私の声はこの人と似てる。と思いたい。線の細い声で喚き突き刺すような歌い方に感化されまくります。金切声の妙。

4月13日
オモシロ楽器を買った。故にオモシロい。ギュワーンとかビュオーンって鳴ります。ふふふ。ふははは。

4月14日
厄年万歳。ということで、貝塚は水間寺にて厄除けのご祈祷してもらった。お坊さん3人でウニョウニョ何やら唱えて、木魚ポクポク、鐘ヂャーン。宗教に纏わる音楽は基本的にトランス・ミュージックやなとシミジミ感じました。あの独特の低音、単調歌唱がいいですな。寺に来た実感が湧くわ。シタールのドローン弦と同じ効果やな。最後の琵琶盲僧と呼ばれる永田法順さんの声も一度でいいから喉→空気→鼓膜で聞いてみたいものです。

4月15日
私にとって音楽とは何だろうか、との考えを海王星の向こうにあると言われる惑星の裏側あたりまで巡らせた結果、それは「声」であるという結論に至った。人間の発する「声」はそれ以外の音とは明確に区別されるべき特殊な音である。そして私の場合、その特殊な音こそがまさしく音楽なのである。(祥本サンゴ著『我が妄想〜「我が闘争」と「涙そうそう」って似てるよね〜第1巻』音楽之ツレ社、199X年、P674より引用)

4月16日
うわ、おいしっ!むちゃくちゃおいしい!やったね!というぐらい美味しいものを食べて見たい。全盛期の悟空がもっと強いヤツと闘いたがっていたほどに。

4月17日
「2歩」でプロ棋士が負ける瞬間という動画をYouTubeで見る。だいぶ前の動画らしいけど、爆笑したわ。負けたほうが「なぜ…」と考え込む様子もおもしろいけど、勝ったほうが上の空っちゅう感じでぼけーっとしてるのがたまらんわ。90年代前半のショートコントが持っていたシュールさに近い感覚や。たとえば現在の芸人が同じシチュエーションでコントしたら、必ず何か言葉を発さずには居られないはずや。今は何でも説明する=言葉にして表現する時代。「説明しない説明」もあると言う証明になるような類まれな映像やな。

4月18日
「探偵!ナイトスクープ」はテレビ番組の一つの理想形。

4月19日
Arturo Benedetti Michelangeli「ドビュッシー前奏曲集」を布団の中でイヤフォンで聴く。不協和音が風のように流れ、溶けあい、離れていく。付かず離れずの音と音のあわいにイメージが捻り出されていく。まどろっこしい演奏。しかし、遠回りでなければ表現できない世界があるのだと感じる。布団の中で感じる。

4月20日
スーパー的な銭湯的なトコロに行く。昼間は様々な服を着て働きまわってる人々が、立場も身分も分け隔てなく素っ裸で湯に漂ってる。なんかエエな、と思いましたよ。

4月21日
地球のことばっかり考えすぎて自分の行く末さえ考える余裕がないほどエコロジー&ココロジー、サイモン&ガーファンクルでお馴染みの祥本サンゴ愛用の自転車、つまり「愛車」が潰れる。スポークが折れて後輪がヘナヘナっと。何とか走るんやけど、思わず笑ってしまう乗り心地。アメリカの方の車で、バネで車体が跳ね上がる改造が施された燃費も頭も悪そうな車みたいな。ある意味ゴキゲンな乗り物。しかし、危険なのでもう乗りません。何らかの法規に引っかかるやろうし。ということで今後は、歩きます。そして、走ります。どこに行くのも。そう決めました。あわよくば、サルに、もどります。文明に別れを、告げます。

4月22日
隠れ家的お食事処ハッケーン。今まで行った飲食店の中で、抜群に「ツボ」な店や。味、雰囲気、コンセプト、接客、備品および内装のセンス、全ての要素が良かった。故に誰にも教えまへん。一人っ子特有の「好きなものは独り占めしないと気が済まなくなる」「愛のままにわがままに僕は君だけを傷つけない」習性が私の人格形成の基幹を成しているという事実を深くお詫び致します。放っておいたら生涯賭けて隠れておれそうな予感。第六感。気をつけろ俺。本当の隠れ家になる。

4月23日
種々の声は肉体(特に上体)から形成されるという持論に則り、肉体改造を企てる。体を大きくしたい。そのためにはまずタンパク質が大切である。ということでささみ、豆腐を中心としたメニューを考え必要な食材を買出しに出向く。毎度お馴染みスーパー的なマーケットをルンルン気分(死語)で駆け回り、レジへ。さてオイクラかな、という段になってサイフに金が入ってないぢゃん。厳密には全くではない。チロルチョコ4個分くらい。ごめんなさい、お金ありません。と店員さんにルンルン気分(死語)で集めた食材を返す。ウルルン滞在記。上体を豊かにする前に懐を豊かにしたい。うまいこと言ってる場合ではない。なんか情けなくなったので冷凍のうどん食って不貞寝。

4月24日
久々にアコギを触る。近頃は半分ナイロン弦のYAMAHA製「ギタレレ」ばかり弾いてたので、こんなにアコギは金属的な音だったのかと思い知る。フレットの間隔もやたらと広く感じる。しかし、数分も抱えていると慣れてくるものである。自転車みたいなものか。自転車…

4月25日
餃子の王将の餃子の持ち帰りパックを家で焼いて食べる。餃子を焼く、とは言うが、餃子の調理法は「揚げ」と「蒸し」の組み合わせによるものだと思う。底面を油の層で揚げて、本体および具は途中で注し入れる水の蒸気によって蒸す。こうして、底はカリカリ中はジュワっと出来上がるのである。ということで、餃子を揚げ蒸す、と言うことにします。今後。「どつきまわす」と似たような語法ですね。

4月26日
歩いてると世界をより細分化して捉えるようになるな。究極には地球の鼓動を感じるというか。移動スピードが遅いということは認識の間隔は狭いということ。それだけ丁寧に世界と向き合える。

4月27日
『少林少女』をふらっと観に行く。♭。昨日の夜、民放で流れてた『カンフーハッスル』が面白かったので。あとナイナイの岡村さんも出てたので。結果、面白かったわ。いわゆる商業映画やけど、「やってやろう感」が終始あったので楽しく観れた。『マトリックス』以降、飛躍的に実用化したSFXを、カンフー映画における肉体の躍動感と組み合わせたチャウシンチー独特の無重力に満ちた映像。感じたことがあるようで見たことはないスピード感。それが表すものは恐らく、「マンガ」のコマとコマの間に存在する速さなんやろう。その意味でマンガ以降の映画と言える。あと、構造としてのトンネルがない。『不思議の国のアリス』や『ネバーエンディングストーリー』のように、現実と幻想の世界がトンネルのような抜け道でハッキリと区別されている作品とは違って、現実とも幻想とも受け取れる世界。ともすれば夢現を喧嘩両成敗されてしまう危険性をはらんでいるが、そのシームレスな往来こそが、少林拳と女子大ラクロス部という突拍子もない組み合わせを可能にさせてるんやろう。この2点による「やってやろう感」が日本を舞台にして描かれただけでも価値はあると思う。いやはやしかし、柴咲コウはすごいなぁ、という結論になるわけです。何やっても様になるというか。あんな人が道端に倒れてたら、すぐ助けに行くんやけどなぁ。倒れてないよなぁ。

4月28日
カンフー気分で『ドラゴンへの道』を観る。観終わって、家の柱などを数回叩いたりする。ブルースリーの映画観た人の半分以上はしてるはずである。あちぉ。

4月29日
Miles Davis『Kind of Blue』を改めて聴く。モード・ジャズとは旋律によって紡ぎだされるリズムを主体とした音楽なのだと気付く。コード理論に対して喧嘩を売るような方法論。コードは「和声」と訳される概念であるが、突き詰めていくと非常にヤヤコシイ部分が多い。倍音との関係とか。経過音の問題とか。音楽の3大要素として挙げられるのが「リズム」「メロディー」「コード」であるが、私はとどのつまり音楽の全ては「リズム」に集約されると考えている。コード理論を用いればリズムとは相容れない範疇で和声という理論に守られながらメロディーを展開することが可能であり、本来は一体であるべきリズムとメロディーがコード理論という曖昧な空間で無理矢理に繋ぎ合わされてしまう危険性もはらんでいる。その点でマイルス先生は偉大であると思うのである。「トワニチカイマスカ」。両家のお堅い親族一同が会するコード教会の中で新郎リズムと新婦メロディーは形式的な永遠の愛を誓おうとしていた。その時、けたたましい音を上げて開く教会のトビラ。ギョロリとした鋭い眼光。褐色の肌。「ぷふぉーっ……」鳴り響くミュート気味のトランペット。メロディーは振り返った。「マイルス!」コード教会内は親族一同が発する見事に統制された協和音のザワメキに包まれる。「お前たちの愛は、こんなちっぽけな教会の中では誓えないだろう!さぁ早く、俺の車『Kind of Blue』号に!さぁっ!ぷふォーっ…」リズムとメロディーは手を取り合って駆けだした。コードの呪縛から逃れるために。本当の自分たちに出会うために…第2章「救世主!祥本サンゴ登場!」につづく。

4月30日
1ヶ月って、早いな。年々早くなっている。これはいわゆる錯覚だが、時間の流れなど所詮は錯覚によって決まるのだ。

5月1日
風薫る五月です。曲がりなりにも表現者でありたいと願う身、日々、自らの感受性の衰えに恐れを感じております。いわゆる「すれる」というやつですな。いつまでも風の薫りを感じ取れる人間でありたいものです。で、風の薫りってなんやろ?

5月2日
日記が2ヶ月間も続いたという前代未聞の衝撃の事態に驚きを隠せないといった様子の祥本サンゴさんにお話を伺ってみましょう。「驚きを、隠せません。略して、オドカマンです。こんばんは、妄想戦隊オドカマンです。オドロ!」ありがとうございました。

5月3日
芥川龍之介「トロッコ」をちょっとだけ声に出しながら読む。分かりやすいメッセージを持ち、それでいて技巧的な作風で知られる芥川だが、「トロッコ」は読解しにくい作品である。正直、よく分からん。私の読んでいる筑摩書房『日本文学全集25』巻末の臼井吉見「人と文学」によると、志賀直哉「真鶴」との関連を指摘している。「真鶴」は読んだことがないので、読まなければ。なぜならば、「トロッコ」のよく分からんカンジが好きだからである。分かりやすいスゴサもあれば、分かりにくいスゴサもある。田中一光の作り出した潜在意識に滑り込むロゴマークのような、平成のゴールデンタイムを引きの画で動き回る岡村隆史のような、聡明な指先の浮き沈みによって超自然に空気分子を踊らせるホロヴィッツのピアノフォルテのような、蔑称としてのJPOPを娯楽と芸術の狭間で歌い上げる桜井和寿のような、誰の目にも明らかな絶対的価値を提示するスゴサ。グチャグチャの油を塗りたくったカンバスにあらゆる感情を内包した花を咲かせたゴッホ、「どっちが勝つか、分かりまへん」右と左のクモが死闘を繰り広げる(大空)テントの両手、不協和の弦振動が織り成す波間にセロニアス・モンクは呻き声、現代日本商店街に突如現れた通り魔として聞くものの耳を突き刺す向井秀徳無常節。気付いてしまった者の心を掴んで離さない感覚を提示するスゴサ。これら両極端のスゴサが入り混じるようにして、私の芸術観は存在している。いわば「ベタ」と「前衛」、どっちもアリなのです。欲張りでごめんなさい。幼少時より類まれなデッサン力を発揮しながら「ゲルニカ」などの優れた抽象画を残したピカソ。日本の「笑い」を世界一綿密な計算の上に成立させた松本人志。60年代ロックというフィクションをめぐって2人の人間が起こした化学反応がノンフィクションの代名詞となったレノン・マッカートニー(すなわちビートルズ)。宇宙の言葉と戯れるまどみちお。そして芥川。彼らのように、両極端を自由に往来する紛いない天才もいる。全員好き。よって、敬称、略。

5月4日
ということで「真鶴」を読む。確かに「トロッコ」と似ている。舞台や人物設定は違うが、構造はほぼ同じ。むしろ「真鶴」の方が洗練された印象を受けた。これが芥川にぼんやりとした不安を抱かせた作風なのだろうか。よく知りませんが。ある種の成長がテーマやとしたら、宮沢賢治「風の又三郎」の世界観と似ているのかな。ぶつぶつ。そういえば、「つぶつぶグレープ」って最近見かけなくなったな。250ml缶にブドウの実が入ってる清涼飲料水。普通に飲むと最後のほうのつぶが底に溜まって出てこないから、時折缶の底をグルグルさせながら飲むのがコツやったな。しみじみ。

5月5日
こどもの日です。だから、祥本サンゴの日です。大人になりたくない!こんにちは、魅惑のピーターパンシンドローム、祥本サンゴです。ゆくゆくは「サンゴランド」という夢の国を作ります。最近、何もしなくても自分の足がクサイと感じる時があります。悔しいです!(変な顔)。日々、死に近づくことを「生きる」と呼ぶのだと知りました。生きる!(変な顔)。

5月6日
近所の「DOMDOMハンバーガー」がなくなってた。数あるハンバーガーショップの中で一番好きやったのにな。残念。独特の優しい雰囲気がよかったのに。全国のマクドーナルドがDOMDOMならなー。でもそうなったらマクドみたいなDOMDOMになるのかな。祥本サンゴはDOMDOMハンバーガーを応援しています。

5月7日
郊外型ショッピングモールに入っているHMVに立ち寄る。それとなく視聴機に入っていたhe「hir large crimps」を聴く。あまり上手とは形容できない英語詞が日本語のように聞こえてドキッとする。ので買って帰る。そういえばFM802でかかっていたような気がする。70年代の後半に桑田佳祐が向こう見ずに放った支離滅裂な日本語が目指した感覚を逆輸入的に英語でやってしまえる時代が到来しているということか。当人たちがそれを意図しているのかは知らんが。『LuckyRaccoon vol.27』も買う。いつか森田恭子さんにインタビューしてもらえるようなアーティストになりたい。『BREaTH』も大好きでした。たまには青臭く真面目なこと書いてみたりして。

5月8日
シンセサイザーを用いた場合の祥本サンゴの可能性について考える。可能性、アリ。

5月9日
自主制作でCDを作ろうかな。ライブに出さしてもらえても、売るものとか配るものがないと寂しいなぁと思う訳です。CDもそうやし、Tシャツとか、特製ストラップとか、絵はがきとか。最終的には西ヨーロッパの香り漂う雑貨屋さんを開きます。皆来てね。

5月10日
最近、どこまでが現実なんやろうって思う時があります。てへっ。

5月11日
あー俺も芥川賞を売名行為に出来るだけの文章力があればなぁ。

5月12日
ケンタッキーフライドチキン5ピースを肉食獣の顔でむさぼる。むさぼりつくして、ジェームス・ブラウンの執拗なまでにタイトなリズム感に思いを馳せる。ソウルつながりということで。あれぐらい音楽の時間に没頭する演奏および歌唱ができたら、そこそこの世界が描き出せるやろうなぁ。祥本サンゴもサンゴショー後半で一回倒れるようにします。だから皆で「サンゴー」って呼んでね。そしたら「ゲロウラっ」って立ち上がります。

5月13日
なんばグランド花月に吉本新喜劇を観に行く。なんやかんやで大阪に住んどきながら、一回も生で見たことなかったので。土曜日のお昼のテレビでは何度も見てますが。正直4500円は払うの躊躇したけど、劇場出るときには納得出来たかな。お客さんは平日にもかかわらず満員。笑福亭仁鶴さんと中田カウス・ボタンさんが拝めたし、落語家としての桂小枝さんの小噺も聞けたし、西川のりおさんがハタいた上方よしおさんの刈り上げの音も聞けたし。個人的には大好きなティーアップが出てて嬉しかった。あの「間」が生で感じれてヨカッタ。あと楽器漫談の方や、中国の体柔らか少女の演舞とか、盛りだくさんの内容やった。$10は途中からしか観れんかったけど。んで新喜劇。いい意味で予想通りやった。出来上がってるのね。舞台の上に世界が。テレビで見たままの世界が。演者の方々の本気が伝わってくる訳です。私がかねてから注目している21世紀型バラドル宇都宮まきさんも頑張ってたわ。あんな同年代の人が舞台の上でしっかり活躍してるのを見ると、俺もやらなっ、という気持ちになります。しかしまぁ、お客さんがよう笑ってたなぁ。あないに笑うもんなんやなぁ。そら、笑いに来てるんやから当たり前のことなんやけど、当たり前のように人を笑わせるってすごいよなぁ。芸人さんを心から尊敬する吉本サンゴ、もとい祥本サンゴです。今回の観劇を終えて音楽的な感想述べますと、音量のダイナミズムがテレビのそれとは比べ物にならんということです。NGKがどのような音響設備なのかは分かりませんが、私の座った1階後ろから2番目の席でも迫力ある音でした。いわゆる「すかし」と「つっこみ」を音量の差で感じ取れるのは舞台ならではの魅力やと思います。「間」にしてもそうやけど、お笑いって一種の音楽やと思うのです。楽しめる音やとすれば、喋りによる笑いって究極の音楽なんかもなぁ。
吉本新喜劇

5月14日
何をどうすればいいのやら。あたふた。今、ロボットダンスみたいな動きをしてます。だから今日からロボットダンスが特技です。あと、けん玉も上手いです。手先が器用だとよく言われます。よろしくお願いします。

5月15日
河出書房新社の雑誌『文藝』の最新刊をAmazonで取り寄せる。あんまりAmazonで買いたくないけど、近所の本屋どこ行っても置いてないから仕方なく。1998年以降のいわゆる「日本現在文学」について俯瞰している内容。最近の日本文学を読んでみたい、読み漁ってみたい、子供アニメ大会で再放送してたあさりちゃんが懐かしい、と思っていたので丁度よい。手始めに中原昌也『マリ&フィフィの虐殺ソングブック』から読み始める。

5月16日
「ジャズ・ヴォーカル不滅の金字塔」と書かれた帯の横には、叫ぶような女の顔が描かれている。BILLIE HOLIDAY「STRANGE FRUIT」。初めてビリーホリデイの歌を聴いた。前述の文句が表すような有名な人やから、名前ぐらいは知ってた。「星空のビリーホリデイ」。完全に食わず嫌いやったわ。ヤラレタ。こんな心の奥に入ってくるような歌を歌う人やと思ってなかった。華やかさとは対極にあるような歌。表題曲「奇妙な果実」の歌詞もすごいなぁ。暗っ。暗い歌って本当はすごく難しいんやろうな。命懸け。同じ暗さでも美空ひばり「悲しい酒」みたいなのとは違う。悲しいというより、やるせない感じ。もう、本当に、はぁ、歌お、って感じ。島倉千代子「人生いろいろ」みたいな。島倉千代子「人生いろいろ」みたいな?カクッ。カクッ。

5月17日
部屋の掃除。なぜ散らかるのか、と考えてみるが、答え、出ず。身近な神秘やね。

5月18日
Cluster『ClusterU』を聴く。いわゆる実験音楽やけど、何かが生まれ出る時のエネルギーが詰まってる感じがしてゾックゾックする。1972年に圧倒的なオリジナルやったこの音が、やがて現在のセオリーとか常套句と呼ばれるものへと変わる。俺が死んでから何十年か経った時に「この音はね、祥本サンゴっていうちょっと変わった人が作ったんだよ」といった会話が交わされるような音楽を鳴らせたらいいな、と思っています。

5月19日
昼夜の気温差が激しい今日この頃ですが、次第に暑くなってくるのです。イヤになるほど。地球温暖化を何とかしたいわ。

5月20日
エレキギターほど直感的な楽器は無いな。今のところ。

5月21日
サザンのこと想いながら眠る。

5月22日
エースコックのワンタンメンをより一層おいしく食べる方法を発見。それは、多い目のお湯で茹でるということだ。もしかして、他の袋インスタントラーメンも同じ方法でおいしくなるのかも知れない。ささやかな希望が胸に満ちています。

5月23日
ピアノを出来る限りリズム楽器っぽく弾いてみる。たいそう汗をかいた。汗をかきながら思ったことは、ストライドピアノなんかに代表される黒人の発明したピアノ奏法における左手の「ズン、チャ」は、バスとスネアのリズムの原点なんやということ。

5月24日
うめだ花月に行く。えらく急勾配な客席で、座席数の割には後ろからでも舞台がよく見える劇場やな。楽しい夜やった。賑わう土曜のキタの街を背に、雨の御堂筋線に乗って、帰途につきました。生の舞台は、ええなぁ。刹那や。

5月25日
「アラ!」という間に一日が終わる。あんれま。「大阪ほんわかテレビ」見てても、全くほんわか出来るような心境にあらず。何も無かったという内容の日記は書く必要がないのである。数字の「0」のようなもの。音楽と数学ってカナリ近い感覚に基づくと思うんやけど、決定的に違うのは、音楽には「0」の概念が存在しないということ。同じ音でも「1度」っていうからね。でも、これはあくまで便宜上(歴史上)そう呼ぶだけであって、実際は周波数の対比で音程は決まるから、同じ音は「0」のはずなんやけど。とりあえず確実に分かってることは、何も無かったという内容の日記をいくらこねくり回して誤魔化そうとしても、書く必要がないことに変わりはないということ。

5月26日
「水戸黄門」見てたら、泣きそうになった。これを情緒不安定というのか。

5月27日
冷奴が美味しい。しかし、改めて考えると「豆腐」ってすごいネーミングやな。名前の半分が腐ってるんやで。食べ物のくせに。「臭豆腐」なんか更に、臭いんやで。せめて「芳豆腐」とかにすればよかったのに。ま、本当に臭いらしいけど。

5月28日
アンジェリーク・キジョーいいな。「わて、こないな歌い方しか出来まへんのや」という感じがいい。それでいて洗練されているという。天才や。俺もグラミー賞にノミネートされてみたいわ。どっちかっていうとノミでネトネトしている祥本サンゴです。そんな不潔ちゃうわ!今のところ。どんどん不潔になっていくかも知れない祥本サンゴに乞うご期待。

5月29日
キジョー続き。考察。瞑想。つまりは、ビヨンセと全く反対の方法論に則っているのだという結論。ヒップホップカルチャーがあらゆるエネルギー(貧困、人種、暴力、音楽スタイル出尽くしちゃった感)を巻き込みながら手探りの中で築き上げた「ラップ」以降、最もデフォルメされた形態で完成してしまったビヨンセの「リズム楽器としての歌唱」パフォーマンスがアメリカン・ショービズ界からのアフリカ回帰と言えようものなら、キジョーはアフリカ側からのポップミュージック再解釈や。『oremi』の「Voodoo Child(Slight Return)」なんか聴いてると、いかにそれがアフリカンな要素に満ちた曲やったんかと気付く。ジミヘンの中に隠し味として入ってた「アフリカ」をより強めたような感じ。しかしや、ビヨンセにもキジョーにも、その根源に流れてるエネルギーは同じ「アフリカ」なんやということ。さらに言えば、それは「リズム」。音楽とは何か、という問いを突き詰めて行けば、最後はリズムにたどり着く。同じようなこと前にも書いてるけど、もう一回書く。たぶんこれからも何回も書くよ。音楽はリズム。音はゆらぎ。空気のゆらぎ。ゆらぎはリズム。2つの音が重なればハーモニー。ハーモニーは複雑に変容したゆらぎ。一定の周期。すなわちリズム。メロディーは、リズム。うぉぉぉ。とにかくリズムこそが、音楽なのだ。アフリカに行きたい。死ぬまでに絶対に一度はこの目で、肌で、耳で、アフリカの空気を感じたい。地球が生み出したリズムの根源を感じたい。うぉぉぉ。ブードゥー教徒になろうかね。

5月30日
花金です。花もへったくれもない一日やったわ。決戦は金曜日。ブードゥー教徒になろうかね2。

5月31日
石原正一さんという方のイベントを観に行く。先週のラジオでつげ義春『ねじ式』を朗読してるのを聴いて面白かったので。イベントは80年代へカムバックといった内容の音楽ライブで、お客さんも30代以上の方が多かったように思う。エレキギター弾きながら歌ってたけど、決して上手な演奏ではない。達者な演奏ではない。しかし、エネルギッシュ。本来は演劇の方で、多分に演劇的要素に包まれていた。演劇に携わる方はもれなくエネルギッシュな感じがする。マンガ朗読の時間もあって、これまたとてもエネルギッシュやった。登場人物の台詞はもちろん、擬態語・擬音語とか効果音の類も声だけで演じるというもので、マンガ読むときに頭の中ですることをすべて声に出して表現するという遠回りでありかつ直感的な表現が面白かった。子供の頃に『北斗の拳』とか『ドラゴンボール』などの影響で、殴る真似をしながら「バシュッ」「ドゴッ」なんて言ってたことを思い出した。あの頃は、頑張ればカメハメ波が出ると思ってた。頑張らなくてもエネルギー弾くらいは出たような気がした。そして最近、割と自在にオナラが出せることに気が付きました。残酷に過ぎる時間の中で、きっと十分に僕も大人になったんだ。望郷。望郷か?会場は小さなカフェ。あの距離感で自分の表現と向き合ってもらえたら幸せやろうな。久しぶりに人の体温を感じたような気がした夜やった。場やった。「芸は場から生まれ、場は芸で創られる」とは祥本サンゴ格言シリーズNo、25です。参考テキスト『残り物で出来た!家族も大満足、祥本サンゴの作り方〜愛されるよりも愛したい真剣(マジ)で〜』の13ページをご覧になってください。あと思ったけど、地下鉄堺筋線って雰囲気いいな。

6月1日
そうめんうまい。つるつるとしたしょっかん。あんれまじゅーんぶらいどのきせつだがね。ひらがなばかりはよみにくい。

6月2日
最近、「盆栽」みたいなものかなぁ、と思う。私の曲作り。全然完成した曲にならなくて、動きようがないという日々を過ごしているのだけれど、今私の中に満ち満ち満ちているイメージが納得できる形で曲になれば、少なくとも日本では誰にも覆せないような作品になると思ってる。思い込んでる。思い上がってる。まだ思い上がってはいけない。日本の歌謡曲の歴史背負ってやれる自信がある。音と言葉のあわいに育つ木が、行くべき方向に伸びていくのを、時たま手を加えながら、見守っているのです。だから、誰か私を見守っていてください。毎日少しずつでも、絶対に伸びていると信じているのです。いつか綺麗じゃなくて歪でも、誰も見たことがないような盆栽が出来て、それを見た人が何か感じ取ってもらえるようなものであれば、いいな、と思っています。長年会ってなかった親戚の子供が大きくなってた時のようなオドロキを与えたい。サンゴちゃん大きくなったねぇと言われたい。言わせたい。生きることは信じることやと思います。おやすみなさい。

6月3日
ラジオいいなぁ。視覚が使えない分、聴覚で得た情報を元に情景を想像するからボケ防止になるって何かで読んだけど、ホンマにそう思うわ。視覚から得られる情報を出来るだけ信じないで暮らしてみたい。そして、南斗白鷺拳のシュウになりたい。

6月4日
テレビがクイズ番組だらけや。本当の問題は、「本当の問題は何か」である。誰か答えてくれ。

6月5日
チキンラーメンのくぼみが以前に比べてクッキリとしてる。ささやかな発見。

6月6日
スーパーバタードッグのこと、想いながら眠る。

6月7日
梅酒がおいしい。ソーダで割ったらシュワッとしたよ。いわゆるシュワちゃん。

6月8日
近所のスーパー的な銭湯的な温泉に浸かりに行く。いまいち普通の湯と温泉の違いが分からない。五感の中では触感が一番弱そうな祥本サンゴです。一番効くのは言わずもがなの第六感です。よく、誰もいない部屋で話に花が咲きます。コワイネ。

6月9日
通り過ぎていく救急車のサイレンが昔とは少し違う音に変わってることに気付いた。昔のが「ピーポー」やとすると、今のは「ミーモー」みたいなカンジ。マモー、ミモーー!!道路沿いの住民の苦情対策だろうか。ちょっとだけハラハラ感が弱まったな。学生の時に、授業中に救急車の音が聞こえたら言わなアカンかのように「迎えにきたで」みたいなこと言うヤツいたけど、あれも要するに救急車のサイレン音が持つ「ハラハラ感」によって巻き起こる緊張を解きほぐそうとして出てきた言葉なんやろう。このハラハラするカンジって、サンタナの弾くギターが評される時のような感覚、「泣き」といわれる感覚に近いと思う。ギュワ、ココっ、キュイッキキーン、見たいな音。ペンタトニックスケールがよく似合う音。じゃあ「泣き」ってなんやろうと考えた末、それは本当の泣き声やったんちゃうやろか、と思った。人類が進化の過程で聞いてきた無数の泣き声。淘汰の歴史。その記憶。生命に危機が迫っている時に発せられる音。危ない。逃げろ。注意しろ。良く聞け。等ラウドネス曲線に描かれるように、人間の聴覚は音の周波数によって感度が違うけど、この違いを作り出したのは進化の過程で得たあらゆる音(声)なんやと思うのです。より聞くべき音は聞こえるように、それほど必要でない音は聞こえにくく。聞くべき音の代表が泣き声であり、泣き声の始まりは産声であり、産声の延長にあるのが「歌」やと思っているのです。この世に生まれ出たことを母親に知らせるための声。叫び。ヒトが最初に歌う歌や。うまいもうまくないも関係ない、ただその場に響くためだけの歌。何ものにも代えがたい音。そんな歌がうたいたい。今日の日記の内容は良かったな。恐怖の全入学時代を向かえた今、地方の3流大学なら立派な卒論に仕立て上げられるだけの内容や。これを見ている風変わりな若者よ、パクッてもいいよ。そして35流大学の卒論として提出しなさい。タイトルは『「泣き」とYシャツとダーウィン』。落第決定。

6月10日
三谷幸喜『ザ・マジックアワー』を観る。三谷さんの作品をしっかり観るのは初めてや。コントのような良い意味での作為的な「雑さ」が、舞台演劇の空気感を漂わせるセットの中で、これでもかと言わんばかりに精密な構成の脚本によって進められる映画や。どこが、とはいいにくいが、間違いなくこれが三谷幸喜の世界、ということになるんやろう。映画の中でさらに映画の世界を描くという、映画人ではない自身の境遇を逆手にとった様なところがおもしろいな。映画という手法に対して批判的と言うか。イロイロなメディアを作り手として理解していなければ出来ない方法やな。ここから若干のネタバレになるのかも知れないが、書きたいので書きます。この映画を観てスゴイと思ったのは、いちおうはギャング映画の体裁なのに、登場人物が誰も死なないこと。殺されないこと。殺さないこと。テレビ見てたら、どっかのチャンネルでは常に誰かが死んでるんじゃないかというくらい人が死ぬ。死ななアカンかのように。まだフィクションならマシやが、ノンフィクションでもフィクションのように人が死ぬ。報道される。報道という名の演出がされる。朝から晩まで人が死に、死に絶える様子を克明に魅せる。人々はそれを見て、興奮し、憤慨し、呆れ、落胆し、不安になり、誰かのせいにして、少し安心し、直接関わりのない環境にいるはずの自分を褒め称え、やがて数分後には何事も無かったかのように忘れ去る。そんな繰り返しが365日途切れることはない。人が死ぬことが紛れもなく日常の一部となっている。そんな時代に、誰も死なない映画を観れたことが、単純に嬉しかった。この嬉しさを与えてくれたのは、三谷さんの「優しさ」なんやと思う。優しくあることは本当はとても難しいこと。私がこれまで観た映画の中で、最も「優しい映画」やった。犯罪とか起きると、罰則強化、規制強化がまず検討されるけど、本当はこの映画が持っているような「優しさ」を、すべての人が心に宿せるような社会にしていくべきやと思う。You may say I'm a dreamer But I'm not the only one。理想主義や。それは分かっている。具体的な対策案なんて逆立ちしても出てこないが、いま世界が向かってる方向は少しズレてるってことだけは分かる。今日感じた「優しさ」って、中島らもさんが持ってた雰囲気と似てる。俺はあの人の言葉から滲み出てくる弱さの向こうにある「優しさ」が好きやった。優しい歌。歌えたら、ええなぁ。

6月11日
ラジカセ欲しいのに決められないまま買ってなかったので、また視聴に行く。結局決められず、手ぶらで帰宅。必要ないということか。

6月12日
悩む。何かと悩んだ。

6月13日
悩む続き。朝からアメしか舐めてない。しかし、本当に舐めているのは人生か?という気分になる。ウマイこと言えた。

6月14日
ギタレレ弾き語りの練習&イメトレ。数百人の観客を夢想して演奏。かなり危険な光景やな。2階席まで見えたよ。総立ちやった。鳥肌が。

6月15日
K2レコードでいっぱいCDを借りてくる。以前に来たときに比べて在庫がやたらと増えてて、驚く。出来るだけ直感的にオモシロそうなのを借りてきて、その中で本当にいいのがあったら買う。このスタイルが気に入ってます。音楽モノシリ友達でも居てれば、根掘り葉掘り尋ねるんやけど。

6月16日
朝から9mm Parabellum Bullet『Phantomime』。やかましい演奏の中に、どこか童謡のような響きがあって、不思議と静かに聞こえる。パチンコ屋に入ると五月蝿すぎて無音を感じるのと似てるかな。売れセンの音や。今風やね。夕方からLou Reed『Sweet Jane』っていう1972年のライブ盤。ブートレグ音源なのか、録音状態がよくない。演奏のほうもヘロってる感じ。この年代のルーリードの音なんかな。『Live in Itary』がカッコ良すぎたから、期待しすぎてたのかもしれない。ちょっと残念。続きましてRobert Wyatt『Dondestan』。この人の出す音って、うめき声みたい。うめき声だけで音楽しちゃってる感じが聴いてて怖くなる時があるわ。後ろを振り返りたくなるような。不安定な音程が多様されるからかな。次はPierre Bastien『les premieres machines』。現代音楽の香りが漂うわ。本人の筆によると思われるライナーもぶっ飛んでて、ジャケットの妙に鋭い眼光と相まって、アバンギャルド全快。近所の機織工場の音を思いだした。DIYミュージックとして考えると、興味深いわな。そしてちょっと横になろう、と思ってgroup_inou『foods』を再生したのが間違いやった。目が覚めまくった。なんやこの変なラップと変なトラックは。そしてこれだけ個性的な音なのに、ポップなのは何故?神がかってる。「文明の力」だけ気になったけど、この支離滅裂でほんのり繋がる言葉の羅列は山村暮鳥『聖三稜玻璃』を想起したわ。殺人ちゆうりつぷ。すごい日本人がいるもんだ。もっと聴きたいこんな音。心が震えた。

6月17日
朝っぱらからオシリペンペンズ『ミクロで行こう』。なんかクセがすごく強い。寝グセつけたまま商店街を全力疾走して途中でコケタままその勢いでぐるぐる回転しながらでんぐり返りで進んでいくような音楽。大阪のロックシーンはこんな雰囲気で理解されているのか。「ラブレターフロムくっさいブス」ってタイトルが気に入った。くっさい上にブスかいな。続きましてChage&Askaのカバーコンピレーション『One Voice』を聴く。朝からちょっと泣いた。泣きながら飛鳥のモノマネして「んぅぉおーん」って口ずさんだ。日本語で歌われているからこそチャゲアスが好きや、と思ってたけど、英語でカバー&アレンジされてるのを聴いて、同じようにグッときた。もっと普遍的な魅力があるんやと思った。最後の「Walk」のサビが来た時に、まさしくこの感覚が俺の一番欲しているものやと思えた。米食って、村で暮らし、海で漁をしてきた日本人の音。チャゲアスは日本民族音楽なんや。んぅぉおーん。

6月18日
ゆったりとした一日を過ごす。そして、ゆとり教育を省みる。

6月19日
朝、Animal Collective『Spirit They're Gone, Spirit They've Vanished/Danse Manitee』を聴く。センスと技術がリンクしちゃってる感がすごい。ただならぬ音。単純であり不自然なサイン波を基調とするエレクトロニカと呼ばれるような音楽が生み出した独特のゆらぎを、生楽器・生演奏で表現しているような音楽。それは究極には物理と心理の狭間に存在する世界なのだろう。高い。意識が高すぎる。洞察力と集中力が中途半端ではこんな音楽は絶対に出来ない。ひれ伏すわ。夜になり、Was(Not Was)『Was(Not Was)』を聴こうと思ってプレイヤーの中に入れたまま、深い眠りに付いた。バタンキュー、である。

6月20日
借りてるCDなるだけ多く聴いておこうと思いつつ横目に「ムハハnoたかじん」が流れてて、味の素ないやないか事件のことを本人が語っているのが聞こえてきて、オモシロ、と思ったが最後、たかじん動画Youtubeで検索して見まくり。この速さ現代的。そんなに数なかったけど。たかじんさんの歌唱では「ラヴ・イズ・オーヴァー」が好きです。フィーフィーさんのしゃがれ声もええんやけど、これは原曲越えのカヴァーやと思う。たかじんさんの声って喋る時と歌う時で全く質感が違うけど、これって「笑いは一種の音楽」やという証明になり得るんちゃうかな。笑いを歌う、というか。人間が面白いと感じる声のトーンがあるんやと思う。それは往々にして非音楽的として扱われる類の音質なんやろうけど、俺はそれも音楽やと思います。価値基準をどこに置くかの違いやな。その意味で、2代目桂枝雀さんの落語なんかは、あらゆる日本語の「意味」と「音」という言わば「奏者」がそれぞれ別個に持つダイナミズムを世界屈指の集中力で指揮した「笑いの交響曲」なんやと思う。繊細な感覚を突き詰めた先に巻き起こる笑い声とのかけあい。それは黒人音楽における「コール&レスポンス」とも似た響き、情動やと思う。なんてブツブツ独り言ちながら往年の日本歌謡の名曲・名唱の数々をYoutubeで鑑賞しながら最終的にペドロ&カプリシャス「ジョニーへの伝言」で感動のフィナーレ。高橋真梨子の声に、語り手としての巧さを感じまくった。友だちなら、そこのところ、うまく伝えて。

6月21日
悩む。何かと悩みすぎて面白くなってきて、ちょっと笑う。ニヤニヤ笑いながら、悲しくなる。手鏡を見ると「キツネ憑き」のような顔になっている。かなり危険な状態や。水間寺の厄除け祈祷を「当日限り有効」にケチったせいかな。まじで厄年なめとったらエライ目に遭いそうやな。ちょっと墓場で運動会してきます。逆に。逆にね。厄年ギャグ。

6月22日
空模様まで重たいやないか。全体的にどよーんとした一日やったわ。一日中「サザエさん終わりかけ」みたいな気分やったわ。理想的な日曜日は、80年代の山下達郎を聴きながら颯爽とドライブに出掛けたくなるような一日です。ダイスキっ。

6月23日
暗い日3部作完結編。になっておくれ。あーでも楽しい時はやたらと楽しいし、明るい。異様に元気になる。躁鬱病か?ひとつだけ分かるのは、体はすごく健康です。すこぶる。

6月24日
よく晴れた日やった。もうじき暑くなってくるな。そしたらミンミンゼミとジャムって乗り切ろう。サポートメンバー:ミンミンゼミっておもしろいな。やっぱり、おもしろくないな。どんなに頑張っても、メンバーとしての活動期間は1週間やし。そしたら「さようならミンミン、ありがとうミンミン」っていう追悼ライブ開催や。死してなお商業的に貢献するやなんて、もはやカリスマや。そしてミンミンは末永く語り継がれる。全国各地のクリニックというクリニックに常設される週刊雑誌のラックには「メンバー間の確執!?」「独占スクープ!ミンミンは殺された!」なんて原色の文字が並ぶことになるんや。それが商業音楽の掟なんや。ダークサイド・オブ・ミンミンや。

6月25日
『8時だョ!全員集合』の回想特番を観る。おもしろい。そして、おもしろかったんやろうと思った。前者はインタレスティング、後者はコミックとして。リアルタイムで観たことがない(観ていたとしても記憶にない)ので、とても新鮮であった。テレビのゴールデンタイムにあれだけダイナミックな舞台を生放送してたことがすごい。笑いの質感はやっぱり古びてるんやけど、長らくテレビ番組に感じてなかった「さわやかさ」があるように感じた。例えば今は「ワイプ」と呼ばれる小窓が画面の中に出てきて、酷い時やとネタ見せの場面でさえちょこっと付いてきて、その中で共演者や司会の面々が笑っている様子を見せる。垣間見。「ここはおもしろいところですよ」という小さな親切大きなお世話の恩恵に授かり続けざるを得ないような視覚的な指示が充満した番組が非常に多い。その点『8時〜』は、観客の笑い声であったり、舞台上の装置が発する派手な音や演者のセリフが番組の鼓動になっていて、現在の一般的なバラエティ番組と比べて、より聴覚的な抑揚を用いた番組やったんやと思い知ったわ。視覚的=意味的、聴覚的=感覚的とも言えると思います。なんとなく感じた「さわやかさ」は音楽的な感覚。要はドリフターズはミュージシャンやね、ということが言いたかったのです。そして若かりし志村けんの「華」に感服。マンガやで奥さん。

6月26日
音楽て、何だんの?わて分からしまへんわ。英語で言うとワット・イズ・ミュージック?アイ・ドン・ノウやな。これで世界中の人々に俺の苦しみ、怒り、悲しみ、憤り、悩み、哀れみ、そして少しの喜びがリルビット理解してもらえたかな。間違っても「ホワット」とは書かないトコロがポインツだぜ。HAHAHA!

6月27日
一発屋、と呼ばれる人たちがいる。彼らは偶然という必然によって天から授けられた、ただ一つのヒット曲によってその人生を振り回された人たちである。時折、ミュージシャンが名曲誕生秘話などとして「何かが降りてきた」といったようなことを語る。生憎、才覚溢れるミュージシャンが身近に居ないため、実際に何かが降りてきているところを見たことはないが、現に万人受けする名曲がこの世に存在していることは事実である。そのような「降臨」が、音楽的才知に恵まれないはずの者に起きてしまった結果が「一発屋」であると私は思う。テレビに正面切って映るには多分に難があるような容姿の女性。それは年齢相応のものであって、あくまで芸能人としての存在感を有していないという意味である。言わばごくありふれた一般人に過ぎない中年と思しき女性が、相応な衰えた声で、あまりに外見と不釣合いな歌をピアノで弾き語っている。私は夕飯を食べながら、時代遅れな14インチのブラウン管テレビが内蔵する粗末なモノラルスピーカーによって鳴らされるその音を聴き、なんて美しい曲だろう、と思った。てらいや気張りが全くなくて、無意識に口ずさんでいた鼻歌のような、しかし心の深いところからの叫び声のような歌。少女のような瞳で歌う彼女は、小坂明子その人である。子犬の横にはあなたがいて欲しい。眩いばかりの一発やないか。

6月28日
華やいでいるであろう世界中の土曜日の夜の街角を夢想しながら、独り静かに眠る。世界は華やいでいる!華やいでいるのか!華やいでいるのだろう!(華やぐ世界の3原則)

6月29日
朝から山下洋輔の怒涛のピアノ演奏を聴く。題名のない音楽会。絶対に2度寝出来ない目覚まし時計みたいな音楽や。以前に50センチくらいの距離で本人を見たことあるけど、ちょっと優しそうな小さいおじさんという感じやった。とてもあんなピアノを弾く人に思えない。どこからあの衝動が出てくるのか知りたいわ。ウィキペディアにも載ってないわ。

6月30日
あ、という間に終わった一日やし、半年やし、一生やった、とはならないようにしなければ。

7月1日
「鬼の形相でトイレ掃除をしまくる」といった内容の夢を見る。どげんかせんといかん。しかし、意外にも目覚めは爽快やった。一応言っておくが、なんか漏らしたとかではない。

7月2日
この日記を読んでる人って、いてるのか?素朴な、疑問は、難問やね。ある意味、難民やね。それは違うね。

7月3日
ここ最近コーラばっかり飲んでます。体に悪そうなところがよい。実際どうなのかはよく分からないけど。空腹でコーヒーとコーラばっかり飲んでたら、恐ろしいまでに目が冴えた時があった。このまま永遠に眠気がなくなるんじゃないか、と思うくらい。ま、数十分後に寝てたけど。カフェインはある種のドラッグやな。

7月4日
日が落ちて、とぼとぼと近所の小さな橋を渡っているとき、何気なく見た川面に月明かりが揺らいでいて、キレイやな、と思った。そして同時に、そんな気持ちはここ最近すっかり無くなってたことに気付いた。何気ないことに感動することを忘れないようにしたい。月並みな発想やけど、例えば、生きてるということ自体に感動していられるか、ということなんやろう。

7月5日
「かわちながの世界民族音楽祭」に行く。数週間前、不意に見かけた地下鉄のポスターにザゼンボーイズが載ってたので。比較的地元で開催というのもあって数年前から気になってたフェスやけど、今回が初めて。会場はなんとも言えない中途半端な立地やったけど、内容は半端じゃなかった。略して、ンパなかった。統括した感想としては、「拍子」の様々な解釈が見られてよかったことやな。ザゼンにおいては、無音が生み出すスピード感を強調する方法として変拍子がとり込まれていて、なぜだかそれが次第に自然なリズムに聞こえてくるから不思議である。非対称的にぐにゃぐにゃしてるのに造形美を漂わせる名品と称される壺みたいな感じかな。超自然的。バルカンビートボックスはオリンピックの短距離走の決勝を観戦してるような躍動感が終始あった。雑多な音楽の要素を呑み込んでいく過程で余分なリズムが削がれて、ひたすらに純粋で強靭なビートを獲得したんやろう。最大公約数としての拍子。語弊を恐れずに言えば、消化不良の先にあった純粋さなんやろう。モヒカン頭の人の筋肉に共鳴してる気がした。シンク・オブ・ワンは正直、イロイロ煮すぎててノれなかった。たぶん、彼らと俺の日常生活が違いすぎるんやと思う。音楽を聴くときの基準となる日常のリズムが違うというか。その意味で最も複雑な拍子やった。俺の音楽的な予知能力が及ばなかったとも言える。想定外の音楽。いやはや、音楽の放ち得る強大なエネルギーを感じまくったアクロバティックな一日やった。それぞれに拍子の解釈があって、経歴があって、民族がある。個性的であることが「文化」の最低条件であることを改めて考えさせられた。そして、ザゼンは日本「現代」民族音楽なのだと思い知った。そのディレクションとフロントマンをさりげなくやってしまう向井さんを尊敬します。また、この音楽祭を運営されてる方々のセンスはすごく良いと思います。陰ながら応援します。

7月6日
『ライズ』というDVDを観る。アメリカの貧民街に発生した「クランプ」なる踊りに焦点を当てたドキュメンタリー。踊りってどこか楽しげな響きを持つ言葉やけど、「クランプ」を楽しそうに踊ってるやつなんていない。暴力的な衝動に全身全霊を込めて彼らは踊る。踊り狂う。悲しそうに、苦しそうに、怒りながら狂う。すんごいエネルギー。「クランプ」へと若者たちを駆り立てるこのエネルギーこそが、あらゆるブラックミュージックの源泉なんや。このエネルギーと、その裏側にある社会状況を理解出来れば、日本人でラップなんかする気さえ起こらないはずや。俺はそう思う。己の体に漆黒のビートを宿らせるためには、時に血が煮えたぎるほどの負のエネルギーが必要なんや。ま、感情論の極地やが。俺はその感情を信じて、自分に出来ることをするだけ。

7月7日
新しい眼鏡を作りに行く。ちょっと奮発した。何か新しい景色が見えることを願って。星よ、星屑たちよ、お願いします。たなばたならぬ、たなぼたやね。

7月8日
くいだおれ人形は、キャラクターが自立することの可能性を感じさせてくれた。ただの人形が観光名所になる。要は、魅せ方なんや。逆に言えば、どれだけ実力を持った人物であろうと、ただの人形に「キャラクター」という点で負ける可能性があるということ。もっと突き詰めてしまえば、実力なんて存在しない言葉なのかもしれない。こんなん出ましたけど、で世界は成り立っている。内面なんて思い込みに過ぎないのだろうか。うーん。俺も小太鼓をぶら下げてみようか。

7月9日
キャラクター続き。奈良の記念行事のキャラが乱立して、ややこしいことになってる。キャラクターの持つ影響力が社会的に注目されている証拠や。いっそ5匹くらい作って、戦隊ヒーローみたいにしてしまえば。奈良戦隊。絵のタッチが全く違う戦隊ものって斬新やと思うけどなぁ。

7月10日
両極端な環境を行ったり来たりして考えねばならない状況に陥りつつあり、結果として、実に中途半端な日々を過ごすはめになっている。中途半端やな〜。俺も画家になりたい。絵心≠0やけど。イライラ。この苛立ちを絵で表現します。そして個展を開きます。見てるとイライラしてくる絵ばっかりの個展。出口の所に懐かしの「イライラ棒」が設置してあって、クリアしないと会場から出ることさえ出来ない。こんな無意味な絵空事書き連ねてる自分に対して更にイライラ。愛がメラメラ。

7月11日
昼間が暑けりゃ暑いほど、夜風の涼しさ切ないわ。

7月12日
このサイトが携帯電話からは非常に見辛いことに気付く。いずれ改善します。というか、それ以前に見てる人はいるのだろうか。おーーぃ。ただの日記になっちゃうよー

7月13日
餃子の王将にて地味に値上がりした餃子を食べながら厨房を眺める。ザ・仕事といった忙しさがそこには在り、こっちも早く食べずにはいられないような気分で、ゆっくり食べる。食べながら眺めていると、従業員が役割分担をしていることに気付く。餃子焼く人、炒める人、どんぶりに盛る人、注文取る人、マイクでオーダー通す人。それぞれが限定された動作をする。そこには一定のリズムが生まれる。さながらストンプのような打楽器的音世界を感じながら、労働イズ音楽なんやね、と呟く。隣の老夫婦が奇異の目で俺を見つめる。見つめていたと思う。見つめていてくれたと思う。すかさずコップに残るおいしい水をシンコペーションしながら飲み干し、レジスター付近までスウィング気味に歩み寄り、天津飯と餃子でお会計609円お支払い。図らずも、ノンフィクションに、ロックとは、これいかに。満腹。

7月14日から8月7日
旅行に行った。とは言っても、脳内旅行である。長い旅路の果てに見つけたことは、音楽は物理と心理の間に存在するということである。モノとココロ、そのどちらに偏ってもいけない。そして「うた」は、有意味と無意味の間をゆらぐ表現なのである。意味に重点を置きすぎると非音楽的になるし、無意味すぎると歌として奏でる必要性がなくなってしまう。あらゆる価値、概念の「間」に存在する不安定なものを、不安定なまま表現できる「人」になりたい。つまり、「人間」になりたい。そう思った。なんてのは言い訳で、要するに日記を挫折してました。まぁ、すべての言語表現は一種の言い訳やと思てますさかい、堪忍しておくんなはれ。

8月8日
末広がりで縁起がよろしい日。末よ、どうか広がっておくれ。合掌。

8月9月
Stevie Wonder『Innervisions』を改めて聴く。イヤーフォーンで聴く。大胆に割り振られた各パートの音源が左と右の耳の穴でぐわんぐわんウネリ、当時のスティービーの心の中へ入っていくような気分になる。内省的な重さと、大衆的な軽さを兼ね備えた恐ろしい音楽。それを作り上げたのは、才能に追従する栄光と、栄光の裏側にある緊張と、緊張を糧にする努力と、努力によって増大する才能である。そうしたプラスの輪廻が最大限に作用する中で、一人の人間が思い描いた世界観を「音」として具現化し得た希有な作品である。人類の表現活動における遺産となりうるものであろう。私も、私の心の中を覗いてもらえるような作品を、是非とも作りたいものである。

8月10日
mr.fingers『Introduction』を静かに聴く。ラリー・ハードがコソっと作りあげたであろう無機質な音に浸る。ひんやりとしたサウンド。音の温度感について思いを馳せる。たとえば、ファニア・オール・スターズのライブ音源などはとても熱く感じる。音のどこに温度を感じるのかは分からない。今後の研究対象である。また、ハウスミュージックの特徴である「DIY的な音源の制作」に、共感する。ラリーハード先生、と勝手に呼ぶことにする。

8月11日
肉じゃがを作る。いつでも嫁にいけそうな味に仕上がる。ヨメニモロテー。今回作りました、祥本サンゴ特製肉じゃが(味噌汁付き)を抽選で10名の方にプレゼント致します。ご希望の方は住所・氏名・年齢・電話番号・祥本サンゴへのメッセージ(褒め言葉限定)をご記入の上、どしどしご応募ください。なお、この際ご応募いただきました個人情報に関しましては、肉じゃが(味噌汁付き)の発送にのみ使用させて頂き、祥本サンゴが責任をもって処分させて頂きます。皆々様からのご応募、全くお待ちしておりません。

8月12日
祥本サンゴは歌いたい。理由なく、ただ「歌いたい」という何物にも代えがたい衝動がある。この世界中をどれだけ探し回っても歌うという行為以外では感じ得ないことが歴然たる衝動を「音楽」と呼ばれる形態にまで高めることが出来れば、何らかの社会的価値が生まれると予想している。音楽の力、というやつである。その力が社会に対して何らかの良い影響を与えることになれば、いいな、と思う。大げさにいえばその時に、生まれた意味というのを感じるであろう。だから音楽をしたいのである。ここからが問題である。音楽という方法には、表現活動の一種として自分の内面にある何かを「伝える」という根源的な価値がある。と思う。しかし、祥本サンゴの内面に、果たして何か伝えたいことなどあるのであろうか?現時点での主観で言えば、ない。伝えたいことなどないわ。厳密に言えば、そのままの状態で社会になんらかの良い影響を与え得るようなものはない。しかし、音楽する(=表現する)ことになれば、何らかの感覚・感情・考え方・雰囲気などが否が応でも伝わってしまう。その影響力に大小はあれども、何かしらが伝わった時点で「表現」と呼べるのである。ここまで考えが及んだところで、そもそも「伝える」とは?そして「伝わる」とは何なのか?という疑問が湧く。湧くだけ湧いて、解決せず。とても難しい。故におもしろい。

8月14日
北島康介の集中力と勝負強さに感服する。この方は「色」があってよい。いい意味で、ストイックすぎないように見える。頑張り倒して獲った、という感じを見せないで、圧倒的な実力を大舞台で魅せる。エンターテイナーとしての才能も持ってると思う。たとえ同じだけ平泳ぎの才能がある選手がいても、この人のようには泳げないと思う。歩んできた過程の過酷さを「見せる」のではなく、結果の華やかさを「魅せる」。その瞬間の為に、集中し、そして成し遂げる。推測やけど、自分自身で楽しんでるんやろうな。緊張感とか重圧を楽しむことが出来れば、その場を自分のものに出来るのでしょう。日本中にプラスの力を降り注いでいるわ。あやかりたい。

8月19日
大体のことは集中力でなんとか乗り越えられる。ということに気付いた。いかに集中出来るかが勝負や。

8月25日
「和泉の国ジャズストリート」というイベントに出させてもらえることになった。私がジャズとはこれいかに。

8月28日
羽田圭介『黒冷水』を読む。2層式の洗濯機である。つまり、作者と同世代のイメージをデフォルメして、さらに批判的に書いたということが時代として衝撃やったんやろう。なにはともあれ、最後まで「おもしろく」読み続けさせられた文章力に感服や。ページをめくらせる力、という得体の知れない才能をありありと感じた。前半で所々見られる「甘さ」も、後半への伏線なんやとしたら、すごい構成力やな。

8月30日
島本理生『リトル・バイ・リトル』を読む。日が落ちて近所のスーパーからの帰り道に自転車こいでたら少し冷たい風が頬をなでて過ぎていって一瞬「あっ」と思った、という読後感。さわやかというか、あっけないというか。同世代として感覚が近すぎるが故に影響を受けないのだろうか。ともあれページはめくったのだけれど。

8月31日
デビット・リンチ『ブルーベルベット』を借りてきて観る。アメリカ的ナツメロをBGMに描かれる狂気が気持ち悪くておもしろい。こわいもん見たさ、かな。

9月1日
ジャズストに向けて「ジャズ」と「サンゴ」の兼ね合いを考えた結果、「ストライド・ピアノ」奏法を基本とするスタイルで弾き語ろうと思う。そこで改めて敬愛するThelonious Monk『solo on vogue』『Alone in San Francisco』などを聴く。「ブン」と「チャ」の間に歪に詰め込められたイメージの多彩さに驚くばかりである。

9月2日
金原ひとみ『蛇にピアス』を読む。

9月28日
「和泉の国ジャズストリート」にて演る。全くと言っていいほど、思い通りにはいかない訳である。練習は所詮、練習である。本番はゆえに、本番でしかない。とにかく自分の感覚がズレているということだけは理解した。ただし、どのようにズレているかは、いざ知らず。とっても、悔しい。アタマの中のイメージが外の世界と繋がらない感じがとっても歯痒いのです。だから、もっと、演りたい。その場に出てみないと分からないことが多すぎるんだぜ。はぁしかし久々に生きている感じが、したんだな。聞いて下さった方々、お題ボール買いて下さった方々、ありがとうございました。

10月4日
機材の整理をしていたはずが、気付くとその機材をいじくっている。そして、手放せなくなる…

10月5日
桂枝雀『枝雀落語大全第三十六集』を聴く。声の笑い。意味と対峙するかのような「響き」の言葉。おもしろさ。美しさ。である。実験的な「SR」が、不思議で不気味な雰囲気である。定期の話がおもしろかった。それは定期であり、定期でないのである。うむむ。うむむむ。

10月19日
祥本サンゴ渾身の名曲「深呼吸」「鳴門」で応募するも、あっさり1次選考で落ちた「ミュージシャングランプリOSAKA2008」の決勝の様子がラジオ放送された。聴いた。負けた。負けている。ハッキリと私は負けている。音楽は勝ち負けではない、と常々思ってきたが、今日、完全に負けを感じた。それは音楽的な感覚に対してではなく、音楽に賭ける情熱に、である。ハンパやない。ダテやおまへん。真剣勝負なんや。今年度のグランプリのまきはらやよいさんの「アイラブユー」で涙がこぼれた。歌を聴いたわ。久しぶりに人間の歌を聴いた。命の息吹きとしての歌声を聴いた。命を息吹くように、歌う情熱を保ち続けること、それが大切であり、恐ろしく難しい。口先でなく、腹の底のさらに奥深くから歌うんや。うぉぉおお。悔しい。でも、まだ自分が見せかけではない「歌」を感受できることが分かってよかった。祥本サンゴは、歌ってみせるぜ。

10月20日
えなりかずきって、えなりかずきだなぁ。えなりかずきだもの。どのタイミングで「えなりくん」が「えなりさん」になるのか。気になるけど、ぐっすり眠ろう。えなりが一匹、えなりが二匹…

10月23日
掃除をする。部屋のレイアウトなどを変えてみる。気分転換になって、よい。今となっては意味不明の走り書きメモなどを半笑いで捨てる。身の回りがケーブルだらけになっていたので、最低限の本数に減らす努力をする。見た目にはスッキリ。裏に隠しただけだったりする。宝の持ち腐れ状態になっていたMPC1000を使いやすい位置に。サンゴの脳内をサンプリングしてやろうか!さぞかしグルーヴィなこったろうね!小太郎!ただいまご紹介にあずかりましたグルーヴィ小太郎です。ライバルは剣太郎セガールです。さようなら。

10月27日
今村昌平『果しなき欲望』『盗まれた欲情』を観に行く。娯楽としての面白さと、芸術的なセンスが、緻密に構成された映像に同居する、すごい映画やん。俗っぽくて芸術的なんて、イマムラ、大好きになった。『果しなき欲望』の果てしなさたるや。キャラの濃い登場人物が溢れるように出てくるが、あくまで主人公は「欲望」そのものなんや。穴を掘る、嘘をつく、覗き見る、女を抱く、人を殺す、金に眩む。作中を埋め尽くす「負」の行為が産む「正」のエネルギー感。これでもか、と地下を駆け抜けた欲望は大空へ…シャレとんなぁ。どんなに欲に塗れても、空を飛ぶことさえ出来ないのに、というオチ。娯楽としての面白さを支えてるのは、要所のネタフリとオチがしっかりしてるからかな。大阪が好きやったんやろう。『盗まれた欲情』はデビュー作とは信じられない完成度。やったろう感(やってやろう、世間に己の感覚を打ちつけてやろう、という心意気が伝わってくる感じ)に溢れてて、ゾクッとした。内容は醜さの応酬なのに、観終わった後の妙な清々しさは何。それはそうと、長門裕之と桑田佳助って似すぎ。そして、菅井きんの、やっらしい顔!夢に出るわ。

11月12日
今村昌平『うなぎ』を観に行く。俗と芸を共存させる作風は後年まで一貫されていたということか。基本的な作風は保持されつつも、細やかな手法・ディレクションはより洗練されて、他者を圧倒する作品世界や。すげえ人やったんやなぁ。この作品を観て特に感心したのは、「カラー作品における色」を「欲望の色」に当てはめてるところ。赤は生(性欲・情熱)、青は死(静寂・規律)、黄は金。床屋のカラーポールは赤と青が混じりそうで混じらない象徴。揺らぐ心情をクルクルと無言で語り続ける。大団円の花火はこの世の色が交じり合いながら散り、底なしの水面にゆらゆらと映りながら沈んでゆく。大切なことは、UFOが来るか否かではなく、来ると信じきれるか否か。誰が手紙を送ったのかではなく、なぜ手紙は届いたのか。どうして「うなぎ」なのかではなく、なぜ「飼う」のか。それこそが、生きていく、ということの正体なのでしょうか。

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